映画「ファイトクラブ」 破壊と創造への美しき賛歌


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出典
http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96/159307/photo/?page=6

映画「ファイトクラブ」ほど、生における破壊と創造を美しく結晶させた作品はない。

まだ観ていないという方のために、あらすじをおおまかに紹介しよう。

主人公〈ぼく〉は、物質的には完璧な生活を送るが、生きる実感を失ったまま、日々神経衰弱していく。

その前に現れた謎の男〈タイラー〉。〈ぼく〉と〈タイラー〉は〈ファイトクラブ〉という夜な夜な殴り合いの闘いを繰り広げる男たちの集まりをつくり、生きているという実感を手にする。

しかし、クラブの活動規模はどんどん大きくなり、〈ぼく〉の手に負えなくなっていく。クラブの発案者である〈タイラー〉が姿を消し、〈ぼく〉は事態を収拾しようと必死に彼を探すのだが……。

 

“自分”だと思っているもの、それってほんとうに“自分”?

「すべてがコピーのコピーのコピーのようだ」

そんなふうに感じたことはないだろうか。

毎日くりかえされるルーティーン。顔ぶれも同じであるばかりか、セリフすら同じ。まるで台本みたいに。

たとえば、〈ぼく〉は、もはや“今”がいつかすら分からない。上司のネクタイの色と柄で辛うじて曜日がわかるという始末だ。

〈ぼく〉は高級コンドミニアムの広い部屋に暮らし、最新のステレオや家具を揃えることに心血を注いでいる。そう、北欧家具の奴隷。アイランドキッチンの奴隷。最新の電子機器、かっこいい車の奴隷——。

覚えがあるのではないだろうか。
我々はみな、“イケてる自分”のイメージの奴隷なのだ。

“イケてる自分”はどこにあるのか。自分の中?
いや、ここにあるじゃないか。みんなが見えるところに。
このセンスのいいファッションを見て! 乗っている車なんか最高でしょ? ウィットに富んだ会話なんかもお手のもの! 肩書きも、常識も、社交性もあるんです! この輝く笑顔を見てよ! 私は幸せなんです! SNSのページを見て! 友達もたくさんいるし! この充実ぶりったらどうですか!

“イケてる自分”は、もはや自分の中にはいない。つくりあげたライフイメージの中に入りこんで寄生した、誰か別人のイメージの中にしかない。

そうなると、私もあなたも、コピーのコピーの、そのまたコピーでしかない。量産された幻想にすぎなくなるのだ。

 

ほんとうの自分はそれが虚像だと知っている

「僕はジャックの脳の延髄です。心臓、血圧、呼吸を司っています。僕はジャックの結腸です」

形づくられていった“イカした自分”のイメージは、高級な住まいや家具によって実体を与えられ、確固とした(っぽい)ものになっていく。
しかし、本当の自分はそれが虚像だと知っている。

〈ぼく〉は自己欺瞞と不自由さに耐えられなくなり、不眠や神経衰弱に悩まされるようになる。
どうしたら、この虚しさから逃れられる? どうしたら、生きている実感を得られる?

そこで〈ぼく〉は、がん患者の会なんかの集まりに顔を出すようになる。〈ぼく〉は死に直面した人々の気持ちを味わい、涙し、束の間の充足感を得、ぐっすり眠る……。

 

だれだって生きている実感がほしい

「毎晩僕は死んで、毎晩僕は生き返った」

ガン患者の会に参加することを、滑稽な行動だと、あなたは笑うかもしれない。ほんとうに身に覚えがない?

○○万人が涙した! 涙せずにはいられない! という宣伝文句の本や映画がヒットするのは同じ理由からではないだろうか。

我々は常に“感動”したがっている。喜びなど正の感情だけではない。哀しんだり、苦しんだりしたくなる。それがフィクションだとしてもいい。
感動し、ハートから血を流したい。生きているという実感を束の間でいいから得たいのだ。メメントモリ。死を想いたいのだ。

 

どん底まで落ちられる女、マーラ

「あの女は腫瘍のような存在だ」

しばらくは眠れるようになった〈ぼく〉だが、マーラという女性が集会に現れたことによって、もとの眠れない生活に戻ってしまう。
マーラも〈ぼく〉と同じく、がん患者ではない、ただの見物人であり、彼女の存在によって、〈ぼく〉の涙、生きている実感は気休めだという事実をつきつけられるからだ。

そのくせ、マーラには〈ぼく〉のように“ごまかし”がない。〈ぼく〉はマーラと敵対するようになる。

 

殴り合うことで感じる生

「俺を思いっきり殴ってくれないか」

ふたたび不眠と神経衰弱に悩まされるようになった折、〈ぼく〉は〈タイラー〉と出会う。

その日、帰宅すると〈ぼく〉の完璧な住まいが跡形もなく爆破される。つまりは“イカしたぼく”が。
〈タイラー〉は真にイカした男だ。非の打ちどころのないマッチョな身体。端正な顔。男らしい仕草。青白く、ひょろひょろの〈ぼく〉とは大違いだ。住まいや家具、肩書き、お仕きせの会話に頼ることもない。どこまでも自由であり、偽のイメージを纏わなくとも十分かっこいいのだ。

そんな〈タイラー〉と思いっきり殴り合ったとき、〈ぼく〉はとてつもない爽快感を感じる。
口の中に感じる自らの血の味。生きているという実感。自己破壊への欲求、それは生きることへの意志でもある。

〈ぼく〉は〈タイラー〉のボロ家に転がりこみ、〈ファイトクラブ〉をつくる。どちらかが倒れるまで殴り合う、サシの闘いをする集まりだ。夜な夜な命がけの殴り合いをしていると、同じように虚無感を感じていた男たちがぞくぞくと集まってきて、クラブはさらに活気づいていく。

〈タイラー〉はマーラと男女の関係になったようだ。嫌な女だが、〈タイラー〉の恋人だ。
〈ぼく〉はというと、以前なら北欧家具を磨いて鬱憤を発散させていたのが、血まみれになることの爽快さによって、生きている実感を取り戻していき、他の男たちの日常にも同様に、生のエネルギーが充ちていく。

 

瞬間を生き尽くすことこそ、真の自由

「闘ってもなにも解決しない。だがそれが悪いか」

〈ファイトクラブ〉の闘いでは、勝ち負けは関係ない。目的も意図もない。だからこそ純粋な、生のエネルギーのぶつかり合いなのだ。
何かのための生ではない。“生きがい”なんて糞くらえだ。“生きてるふり”なんてしない。次の瞬間のことさえ考えない。
ただ、今この瞬間にだけ、命を燃やす。自分の存在が、痛みに、肉体の動きだけになる。

“自分”は自分の外側にはない。命がけで瞬間瞬間に身を投じ、その刹那を生き尽くすことでしか、真の自由はありえない。自己破壊ぎりぎりの、生死の賭けに出る刹那にこそ、自己は痛みや肉体の動きと一体になり、はじめてただひとつの意味において“生きる”ことができる。

つまり、ただ“生きる”という意味において。それ以上でも以下でもなく。

 

我々はなぜ痛みから逃れようとするのか

「痛みから逃げるな。痛みを感じろ。いつか死ぬってことを頭にたたきこめ。すべてを失って真の自由を得る、
人生最高の瞬間を味わえ」

“痛み”とはなにか。どうして我々は痛みから逃げようとするのか。それと同時にどこかで痛みを求めるのはなぜなのか。

すべての生き物には自己を保存しようとする機能、ホメオスタシスが働く。肉体的な次元でいうのなら、皮膚が破れると痛い。体液が外へ流れ出ると痛い。精神的な次元でいうのなら、“これが自分である”と思っているイメージが壊れそうになると、痛い。

痛みから逃れようとするのは、自己保全のオートシステムが起動しているのにすぎず、そのオートシステムが、肥大した“自分”のイメージにも働くのだとしたら?

我々はそこから脱却し、真の自由を手に入れる必要がある。それには、どうしても、自己のオートシステムを破壊しなければならないのだ。

もはや我々の自己イメージは、我々の肉体ではなく、外の物質的世界に拡散してしまっている。まるで霧のように、それはつかみどころがなく、回収することはできない。できるとしたら、まるごとぶっ壊すことだけだ。

 

男たちの生への渇望はとどまるところを知らず……

「宣伝文句に煽られて要りもしない車や服を買わされてる。俺たちの戦いは魂の戦い。今の時代には戦争も大恐慌もない」

〈ファイトクラブ〉の活動は次第にエスカレートしていく。生きる実感を求める男たちの渇望はとどまるところを知らず、破滅へと向かっていくようにもみえる。

常識的で軟弱な部分が残っている〈ぼく〉は、クラブの暴走を止めようとするが、肝心なときに〈タイラー〉が姿を消す。いくら探しても彼は見つからず、そのうちに〈ぼく〉は衝撃的な事実を知ることになる。

〈タイラー〉は〈ぼく〉だったのだ。
〈タイラー〉は、文明人〈ぼく〉が締め出した、生への渇望そのものだった。

大規模な爆破計画を立てている〈タイラー〉を阻止するため、〈ぼく〉は〈タイラー〉に銃口を向ける。すなわち自分に。
ところが、その甲斐なく大爆発は起こってしまう。

そこには、いつの間にかマーラがいた。
彼女は〈ぼく〉の恋人だったのだ。

 

自己破壊の祭宴

「すべてうまくいくよ」

そこらじゅうの高層ビルが次々と崩れ堕ちていく。まるで世界の終わりでもあるかのようだが、盛大な花火のようでもある。〈ぼく〉とマーラはその輝きに照らされ、手を取り合う。

これほど美しい破壊のシーンがあろうか。
文明の象徴である高層ビル群が、静謐な夜のとばりのした、音をたてて崩れていく。
だが、このシーンはけっして物質的な破壊シーンではない。高層ビル群とその崩壊があらわすのは、外界の事象ではなく、自己破壊の暗示にちがいない。

〈ぼく〉は最後の最後まで爆破を阻止しようとするが、ビルが崩落していくさまを見ている〈ぼく〉の顔は、穏やかな充足感に満ちている。このとき、はじめて〈ぼく〉は、僕になったのかもしれない。

 

自己破壊こそが、生きること

破壊のさきに創造があるのではない。
破壊こそが“自分”の更新、すなわち自己の創造なのだ。

〈タイラー〉がくりかえし言うように、「俺たちはスペシャルじゃない、お前もスペシャルじゃない。みんないつかは朽ち果てるただの有機物体だ」。

我々は、生き、死んでいくもの。それ以上でも以下でもない。ただ、それだけのもの。
だからこそ、生々しく、美しい。自らの破壊と創造をくりかえし、死へと向かっていく。

死を想え。
死を想うこと、自己破壊をすることこそが、生を生き尽くすことになる。

ギリシャ哲学では、人間にはエロス(生への欲求)とタナトス(死への欲求)が同時に存在するという。そして、エロスとタナトスは、じつは反対のベクトルではなく、むしろぴったりと重なる全く同じ意志なのだそうだ。

ヒンドゥー教では、この世界は破壊神シヴァと創造神ヴィシュヌの終わりなき闘いだという。

人間の生への欲求の捉え方は、古今東西、あんがい変わらないものだ。
いかに自分を破壊していくか。
それは、人間が真に自由に生きるうえで、永遠のテーマであるにちがいない。