革命から生まれた皇帝ナポレオンこそが絶対王政の解体者だった


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古今東西さまざまな英雄がいますが、ナポレオン・ボナパルトの名前が挙がらないことはまずないでしょう。

貧乏貴族の息子にすぎなかったナポレオンは、フランス革命という時代の流れにのって、皇帝の地位にまでのし上がります。そしてフランス革命の思想とともに、ヨーロッパ全域に力を及ぼしました。

革命の思想をバックにしつつも自らを皇帝としたナポレオンの行動は矛盾していますが、同時に絶対王政を「解体」し、ヨーロッパ全土に革命の精神を近代共和制国家の礎を「創造」する大きな役割を果たしたのです。

そんな「解体」と「創造」の英雄、ナポレオンを簡単にご紹介します。

 

フランス革命の混乱とナポレオンの台頭

1789年に起こったフランス革命は絶対王政を打倒しましたが、けして順風満帆とはいえませんでした。

革命の動きを危険視した周辺各国の軍事的な圧力だけでなく、国内でもヴァンデーの反乱といった反革命の暴動が起こるなど、非常に不安定な政情が続きます。

さらに1793年に実質的な権力を握ったロベスピエールを代表とする急進派(ジャコバン派)は、反革命派を弾圧する恐怖政治を行い、民衆の気持ちは革命よりも安定を望むようになっていきました。

1794年に起こったテルミドールのクーデターによってロベスピエールが捕らえられ、穏健派であるテルミドール派が総裁政府を樹立します。しかし、なおも各派閥が暗躍し、フランス国内は不安定の極みに達しました。

そこに現れたのが、ナポレオンだったのです。

1796年のイタリア遠征でオーストリア軍を破り、さらにカンポ・フェルミオ条約を結んでイタリア北部の領土など莫大な国益をもたらしたナポレオンは、事実上、周辺各国の干渉を食い止めた英雄でした。

革命よりも生活の安定を望んだブルジョワや農民にとって、力と利益を形で示したナポレオンは、国内を安定させることができる期待の星だったのでしょう。

1799年、再び国内外の危機が高まるなか、ナポレオンはブリュメール18日のクーデターによって総統政府を倒し、新たに統領政府を立ち上げて第一統領の地位につきます。

この軍事クーデターによって、市民の力によって行われたフランス革命は終わり、英雄による独裁が始まることになりました。

 

ナポレオンの改革と皇帝への道

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第一統領ナポレオンは、国外に対しては戦争と外交を使い分けて諸国の対応を沈静化させ、国内はさまざまな改革を行い、制度の安定化と経済の活性化を志します。

税制改革に産業復興、銀行の創設による通貨の安定化、そして世界中に影響を与えたフランス民法典(ナポレオン法典)を制定したのもこの頃です。

ローマ教会や貴族、急進派とも和解を目指しながらも、反体制活動は徹底的に弾圧しました。そのせいもあり、ナポレオンをねらった暗殺計画は増加の一途をたどります。

さらに、国力を高めつつあったフランスを警戒したイギリスとの関係が悪化し、再び戦端が開かれてしまいます。

ナポレオンは自身の生命とフランスの利益を守るために、独裁を強める方向に進みました。終身統領を経て、最終的に皇帝の座につくことを選択したのです。

1804年5月の皇帝就任は、国民投票を行い圧倒的な投票を得た上でのことでした。形式的でしたが国民の総意に基づいた形をとったのは、ナポレオン自身がフランス革命の思想を背景に地位を手にしたからでしょう。

ナポレオン1世の存在は、他国にとって脅威でした。イギリスを中心に3回目となる対仏同盟が結成され、フランスとヨーロッパの対立が決定的になります。しかしナポレオンは、オーストリア・ロシア連合軍、プロイセン軍、ロシア軍を次々撃破し、ヨーロッパの大半を支配しました。

この時期がナポレオンの絶頂期といえます。この権勢が傾くきっかけは、他でもない彼自身が全ヨーロッパに広げた自由と平等の精神でした。

 

反ナポレオン運動の活性化とナポレオンの没落

ナポレオンは征服した国に親族を送りこみ、血縁による専制君主的な統治を行いました。これが、ナポレオン没落の遠因となったのです。

民衆の味方だったはずの皇帝が、前時代と同じ専制君主だった。このことに反発した民衆は各地で反乱を起こします。また、フランス革命の精神に喚起され民族の独立を掲げた運動も多発しました。ヨーロッパ大陸各地で起こる反乱を抑えるため、フランス軍は並々ならぬ負担を強いられることになります。

そして、決定的な転機が訪れました。

最大の敵国イギリスへの支援を続けていたロシアを討つために1812年に行った遠征は、ロシア軍の後退戦略と冬将軍によってフランスの大敗北という結果に終わります。この敗戦がきっかけとなり、各地の反ナポレオン勢力がその勢力を増加させました。

続く1813年のライプツィヒの戦いでも、オーストリア、プロイセン、ロシア、スウェーデンの連合軍に敗北し、パリが占領されてしまいます。

この結果、ナポレオンは1814年に退位し、エルバ島に島流しにされました。翌年、エルバ島を脱出し再度帝位につくも、同年ワーテルローの戦いで敗戦し、セントヘレナ島で監禁されます。

さすがのナポレオンも3度めの再起はなく、1821年に帰らぬ人となりました。

 

ナポレオンが絶対君主制を「解体」し、近代共和制政治の土台を「創造」した

ナポレオンの業績は一言では語れせんが、古い時代を「解体」し、新しい時代を「創造」する役割を果たしたことは確実です。

なかでももっとも大きな影響は、フランス革命の精神をヨーロッパ全土に広めたことでした

本人が皇帝になり、親族による大陸統治という絶対君主制的な政治をしたにもかかわらず、歴史の大きな流れの中では、ナポレオンは確かに近代共和制国家の種を各地に植えて回っていたのです。

ナポレオン亡き後、欧州各国は絶対君主制を復活させようとウィーン体制と呼ばれる前時代的な支配を試みますが、一度芽吹いた自由と平等の精神は、弾圧に屈することはありませんでした。

ウィーン体制は1830年にフランスで起こった七月革命、1848年の二月革命、同年ベルリンとウィーンでおこった三月革命によって幕を閉じます。

ナポレオンという英雄は自ら皇帝になりつつも、結果的には絶対君主制を「解体」し共和制を「創造」するべく、ヨーロッパの地ならしをしていたのかもしれません。

 

【参考文献/サイト】
・島崎晋(1999)『目からウロコの世界史』PHP研究所.
・鶴岡聡(2004)『いっきに読める世界の歴史』中経出版.
・E.ルードウィッヒ著 金沢誠訳(1966)「ナポレオン伝」角川文庫.
・世界史の窓「ナポレオン/ナポレオン=ボナパルト/ナポレオン1世」http://www.y-history.net/