ある愛の物語~エクソシスト~
出典 http://girlschannel.net/topics/244939/
神父が解体すべきはどんな自分か?
これは愛の物語です。ひとりの男が人を愛することを身につけるまでが描かれています。丁寧に、きめ細やかに。青春映画といってよいほどに爽やかな彼の成長が描かれているのです。
映画とは、主人公が古い自分を解体する姿をカメラに収めたものです。古い自分というのは、なにかしらの欠点や問題点を抱えています。エクソシストの主人公・カラス神父の欠点は、「人を愛せない」ことです。
ではそもそもこの映画における愛とは具体的にどういうものを指すのか?
まずはそこからお話いたします。
エクソシストにおける『愛』とは?
本作「エクソシスト」において、「愛」とは「自己犠牲」と定義されています。
自己犠牲は、キリスト教においても愛とされています。
そしてその意味で、主人公・カラス神父は人を愛せません。誰かのために自分を犠牲にできないのです。
映画前半でみっちり描かれるのは、彼のその欠点です。彼は金輪際、自分のかけらすら犠牲にできません。
元ボクサー兼、元精神科医の神父、という勇ましい肩書に惑わされないでください。彼は臆病でひ弱な人間です。そのダメ男っぷりにご着目ください。
まず救いを求めるホームレスを、彼は同情しつつも無視します。気味悪さを優先して。そして酷いのが自分の母に対してです。
彼の母はスラム街に一人で暮らしています。年老いた母は足が悪い。安楽椅子に座り、一人の部屋でラジオを流して孤独をごまかしています。
母が自分に帰ってきてほしがっているのを十分知りつつ、彼はそうしません。罪悪感を覚えているのに、億劫さや不便さにかまけ、彼は実家に戻りません。結果、母はひとでなしの叔父によって施設に放り込まれてしまいます。そこは精神病院でした。劣悪な環境に涙する母。主人公は叔父に抗議します。しかし、「お前が母の面倒を見るのか?」という言葉に、主人公はなにも言い返せなくなるのです。
現実的な金や自分への負担を想像し、なんとかせねば、と思いつつ彼は結局何の手も打ちません。母を病院で亡くしてからようやく悔いて自分を責めまくる、というだいぶどうしようもないやつなのです。
我々だってそうです。自分を犠牲にしてまで、人を助けることは難しい。救世主ではないのです。
その意味で、我々もなかなか人を愛せない。自分ばかり大切にいつくしんでしまう。カラスは、そんな我々をデフォルメしたような男なのです。
では、彼がどのように解体されてゆくのか?
彼を変えるもの。それは…
悪魔にとりつかれた少女。その母クリスが、彼の元に悪魔払いの依頼に来ます。
実母の死に打ち沈む神父は、その依頼をナンセンスと一蹴します。精神病院に少女を入れることを勧めすらします。
しかし、「どうして誰も助けてくれないの」というクリスの言葉が、彼を打ちます。
さらに少女の腹に、「HELP」の文字が痛々しいミミズ腫れとなって浮かび上がります。
「自分はこれまで誰も助けていない」、という恥や痛みを彼は自覚します。
ここに至り、彼は悪魔払いを行うことを決めるのです。臆病な足を踏み出しました。
悪魔払いにあたり、強力な援助者・メリン老神父が加わります。メリンは「自分の命を落としかけても悪魔払いを続けた」という過去を持ちます。つまり自分を犠牲にできる。カラス神父とは正反対のキャラクターなのです。
少女の部屋で、悪魔払いが始まります。苦しむ悪魔は、もろいカラスを攻めてきます。母の幻覚を見せてくるのです。「私が死んだのはお前のせいだよ」。悪魔は神父の罪悪感をえぐってきます。
やはり彼はもろかった。少女の肉体面の健康に理由をつけて、悪魔払いを中断しようとします。そしてメリンを残し、悪魔払いの行われる部屋から逃げ出すのです。
恐れ、自己防衛、自己の存在、が消滅する瞬間——そこにあるのは愛
彼をふたたび立ち上がらせたのは、ここでも少女の母クリスの言葉でした。「娘は死ぬんですの?」
その言葉に、神父はハッとしたようにつぶやきます。「いや。」
もう誰も死なせない。彼に使命感がわきあがります。彼の解体が始まりました。彼は部屋に戻ります。
部屋ではメリン老神父が死んでいました。カラスはもう逃げぬと誓います。悪魔を追いつめます。もだえる悪魔はカラス自身に乗り移ります。直後、カラスは窓からその身を投げました。
自我を取り戻して泣きじゃくる少女を、その母が抱きしめます。神父は自分の命を犠牲にして、少女を救ったのです。
とことん自分本位であった彼を知る我々は、その解体の末の英雄的行為に鳥肌を立ててしまうでしょう。胸が熱くなる。
彼は死の直前、自分ばかりに拘泥する古い自己を解体し、誰かを愛せる自分を再創造したのです。これは愛の物語です。