米騒動に見る藩閥政治の「解体」と日本の民主主義の「創造」


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日本の政治は、私たち国民が選んだ代表者が議会において政治をおこなう民主主義政治です。

日本が民主主義国であることは当たり前だと感じるかもしれませんが、その歴史は意外と長くありません。
日本において民主主義が実現したのは100年ほど前のことであり、その間に戦前・戦中の軍国主義を挟んでいます。

それでは、古い体制が「解体」され、日本の民主主義が「創造」されることとなった転換点はどこにあるのでしょうか

 

1918年の米騒動

1918年7月22日、富山県魚津の群集がこぞって米商店や米倉庫に押しかけました。
彼らは米の高騰に耐えかねて、米商人や問屋など米を扱う人たちに対して直接安売りを嘆願するための実力行使に出たのです。

こうした騒動はすぐさま全国に広がり、8月以降は激しさを増してやがて暴動へと発展しました。
約50日間にわたる騒動は、ほとんどの都道府県で発生し、合計数百万人が参加したと言われ、一部ではその制圧に軍隊が投入されて死者をも出しました。

 

背景~急速な工業化と商人による売り惜しみ

騒動の発端となった米の高騰は突然始まりました。さかのぼること4年、1914年に始まった第一次世界大戦は大戦景気と呼ばれる好景気を日本にもたらし、資本主義を急速に発展させ、あらゆる物価をゆるやかに上昇させました。

そのようななかでも、米の価格は開戦直後に暴落したまま1917年に入るまで大きく変化することはありませんでした。ところが、産業の発達により農業から工業へと労働力の流出が進んだことで米の生産量が伸び悩んだにもかかわらず、総人口、なかでも労働者人口が増加したことで米の消費量が増加します。

こうした状況を受け、1917年半ばより米の価格が高騰しはじめます。

さらに事態を悪化させるように、米が高騰するにつれ、米商人は米の売り惜しみや買い占めを始めました。こうした事態を重く見た政府は「暴利取締令」によって売り惜しみや買い占めの禁止を図ったり、「外米管理令」によって外国米の大量輸入をおこなったりしますが、いずれも状況の改善にはつながりませんでした。

そして、1918年8月に政府が決定したシベリア出兵が社会不安を決定的なものとしました。シベリア出兵は商人たちの米の売り惜しみに拍車をかけます。さらなる戦争特需による物価高騰を期待したのです。

 

混乱の根源である藩閥政治を「解体」し、日本の民主主義が「創造」された

米騒動による実力行使が奏功したのか米の高騰は一服し、騒動は収束に向かいます。そして、古い体制が「解体」され、新たな時代の「創造」がもたらされるのです。

まず、混乱の根源として、当時の寺内正毅内閣が総辞職に追い込まれます。寺内は自分と同じ長州藩閥の官僚を内閣に重用し、議会や国民の声を無視した「非」立憲主義として以前より批判を受けていました。
こうした藩閥政治をおこなったのは寺内に限ったことではなく、寺内までの18代9名の内閣総理大臣のうちで藩閥に属さなかったのはただ一人でした。藩閥政治は明治維新以来、長く続いていたものなのです。

しかし、9月末に誕生した原敬内閣はその藩閥内閣を打ち破ります。原は盛岡藩出身の元新聞記者という経歴で、日本初の平民宰相として知られています。原が所属する立憲政友会は議会制民主主義を志向し、原内閣でも積極的に同党の党員を大臣に起用したことから日本初の本格的政党内閣が実現しました。

こうして原が切り開いた道は「大正デモクラシー」として発展し、数々の民主化運動(のちの普通選挙法実現や男女平等運動、言論の自由についての運動)につながります。

 

明治維新から半世紀を経てようやく藩閥政治を「解体」し、民主主義を「創造」するきっかけとなったのは米騒動でした。直接的な原因は米の高騰でしたが、旧態依然とした権力体制を維持する政府に対する国民の不満が爆発した結果とも言えるでしょう。

太平洋戦争に向けて軍部の支配が強まるにつれ大正デモクラシーは終焉を迎えますが、戦後民主主義の礎となって現在の日本にも息づいているのです。