田沼意次、実は名君!コメ中心の経済を「解体」し、産業育成型経済の「創造」を狙う


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出典 http://rekikatsu.com/2015/02/16/post-601/

田沼意次という名前で真っ先に連想するのは「賄賂政治家」です。けれども、彼が政治家として残した業績は意外と知られていません。

江戸時代の政治家は真面目な人が多かったのは事実ですが、おしなべて経済音痴ばかりでした。

現在ではGDP(国内総生産)というわかりやすい経済指標があります。国会に議席を有するすべての政党は、与野党を問わずGDPの引き上げを目標としています。

けれども江戸時代には、経済を縮小しようと躍起になっていた政治家が名君とされているのです。

対照的に、田沼意次は経済の拡大を図り、貿易を奨励して外貨の獲得を目指し、商業活動も活発化させました。そこから税を徴収し幕府財政の立て直し計画を「創造」しました

現代人の視点では、政治家としてごく普通の政策ですが、当時の「常識」に照らし合わせれば彼はとても「非常識」だったのです。

 

暴れん坊将軍8代将軍吉宗、実は経済音痴

「目安箱」を設置し民の意見を直接聞き、「小石川養生所」を創設して貧困層救済のため無料の医療機関を設置した、これは吉宗の善政です。彼はたしかに名君の一面はあるのですが、経済政策は次々に失敗しました。

その理由を述べる前に、江戸時代の経済について、根本的な欠陥を説明する必要があります。武士のサラリーはお米で支給され、それを現金化して生計を立てていました。吉宗が将軍に就任したのは1716年、江戸幕府の成立から100年以上が経過し、幕府財政は急激に悪化していたのです。

そこで吉宗が考えたのが「新田開発」でした。幕府の主要財源は農民からの年貢、つまり米で成り立っています。米を増産すれば、自然に幕府の収入も増加する。

この発想が吉宗の限界でした。米とは通貨の役割を果たすと同時に、商品として流通しています。供給過多になれば、価格が下落するのは当然です。幕府の財政再建という目標はついに達成されませんでした。

 

商業を重視した田沼意次の天才的な着眼点

吉宗は将軍を退いたあと、1751年に亡くなりました。

10代将軍家宣は、1767年田沼意次を側用人、今でいえば官房長官として抜擢し、その後総理大臣ともいえる老中に指名します。田沼意次は水を得た魚のように次々と経済改革を断行しました。

江戸時代は世界でもまれに見るほど貨幣経済が発展した時代です。大阪堂島の米会所では世界最初の先物取引まで行われていました。

けれども儒教の影響が色濃い「士農工商」の身分制度は、お金を卑しいものとし、それを扱う商人は建前上では身分が低かったのです。冥加金や運上金という税を商人から徴収していましたが、幕府を支えるほどの税収ではなかったのです。

ところが経済眼のある田沼意次は、コメ中心の経済を「解体」し、産業育成社会の「創造」を計画します

株仲間という同業者組合を積極的に奨励し、そこから冥加金を徴収しました。現在に例えれば、多少のカルテルは黙認し、その代わりに法人税を大幅に徴収するのに似ています。

また当時の日本は、東は金貨を使い、西は銀貨を使っていました。これでは流通に支障をきたしますので、田沼意次は東日本でも西日本でも共通の通貨を発行し、為替レートを固定する第一歩を踏み出します。

すでに日本社会は貨幣経済の成熟期を迎え、田沼政権になってようやく政治が追いついてきたのです

 

貿易振興を図り、鎖国を廃止する意図すらあった?

鎖国時代といえども、日本は清国、オランダなどとわずかに貿易ルートがありました。けれども当時は金や銀の産出国である日本は、海外の物産を買うばかりで、一部の芸術品を除き、外貨を大量に獲得する商品が少なかったのです。

そこで田沼が目をつけたのが、清国に向けた中華料理に使う高級食材の輸出です。フカヒレ、干しアワビ、ナマコは俵物といわれ、花形の輸出商品となりました。

外貨獲得のため、日本史上初の政府主導による輸出商品と言えるでしょう。

清国との貿易だけではありません。田沼意次は蝦夷地(北海道)の開発に着手します。驚くべきことですが、彼の北方政策は、どうやらロシアとの北方貿易を視野に入れていたともいわれています。(当時の極東ロシアは食糧が不足していました)仮に田沼意次が長期的に政権を維持していたら、ペリー来航より半世紀早く日本は開国していた可能性すらあるのです。

蘭学者の平賀源内と肝胆相照らす仲だったといわれる田沼意次ですから、開国をまったく意識していないとすれば、やはりその方が不自然かもしれません。

 

天災に勝てなかった天才田沼意次

1783年に浅間山の大噴火が起こります。それに伴い火山灰が降り積もり、農作物に多大な影響を与えました。有名な「天明の大飢饉」が発生し、全国で数万人にのぼる餓死者が出たのです。後ろ盾であった将軍家宣が亡くなったうえ、様々な不運が重なり田沼意次は失脚します。

田沼時代はコメ中心の経済を「解体」し産業育成型経済を「創造」するという大改革を行いましたが、その結果世の中が拝金主義に傾いていたきらいは拭いきれません。

直後に寛政の改革を行った松平定信は、徳川吉宗の孫にあたります。

定信は祖父である吉宗の政策をことごとく否定した田沼意次がよほど気に入らなかったのでしょう。田沼の意図した「創造」はすべて反故にされ、必要以上に「悪人」として評価を貶められていったのではないでしょうか。

「解体」と「創造」を短期間に成し遂げようとした田沼意次をいかに評価するか、それは現代人の課題でもあるようです。