コンスタンティノープルの「解体」が、近世ヨーロッパを「創造」した


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1453年、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープルが、オスマン帝国軍の攻撃によって陥落しました。

この出来事は紀元前から続いたローマ帝国が滅亡したという一点だけでも、世界史上の大事件です。しかし同時に、ヨーロッパ全体を中世から近世へと変貌させるきっかけになったという意味で、創造的な大転換点となりました。

コンスタンティノープルの「解体」は、あらたなヨーロッパの「創造」となったのです。

 

コンスタンティノープル陥落の経緯

1400年代当時、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、すでに斜陽の国でした。領土は首都であるコンスタンティノープル周辺と数カ所の飛び地ぐらいしかなく、国際的な発言力も低くなっていました。

しかし、その長い歴史と、中世のギリシャと呼ばれた独自のビザンツ文化。そして地中海交易の要所であるコンスタンティノープルは、東ヨーロッパを象徴する大きな存在だったのです。

そんなビザンツ帝国の征服には小さな領土を得ること以上に意味があったのでしょう。ブルガリア王国やセルビア王国のように、幾つもの国が征服を志してきました。

特にオスマン帝国はバヤズィト1世とムラト2世のときと、過去2度に渡ってコンスタンティノープルを包囲した、もっとも因縁ある敵国です。オスマン帝国からしても、コンスタンティノープルは地中海の利権を握るためにぜひとも欲しい要所でした。

そんなビザンツ帝国とオスマン帝国の最後の攻防となったのが、1453年のコンスタンティノープル包囲戦です。

 

多勢に無勢。コンスタンティノープルの包囲戦

守るのは皇帝コンスタンティノス11世ドラガセスと、傭兵を含めた約7000名の兵士。相手は後世「征服王」と呼ばれる英雄メフメト2世が率いる精鋭部隊を筆頭にした、約10万のオスマン帝国軍。

いかに当時最高の城壁を備えた要害であるコンスタンティノープルといえども、多勢に無勢でした。

コンスタンティノス11世は、ローマ教皇を始めとする西方諸国にも援軍を要請したようですが応じる国はなく、地中海の権益を共にしていた都市国家ヴェネツィアとジェノバ、近隣のハンガリー王国だけがわずかな支援をしたに留まります。

1453年5月29日、コンスタンティノープルは奮戦むなしく落城しました。皇帝コンスタンティノス11世は最前線で指揮を執り続け、最後は敵軍の中に切り込んで戦死したと伝えられています。

この日をもって、約1500年の歴史を伝えたローマ帝国は完全に滅亡しました。

 

ビザンツ帝国の滅亡がヨーロッパに与えた影響

この後、コンスタンティノープルはオスマン帝国の新しい首都になりました。

キリスト教の聖地でもあったコンスタンティノープルが、イスラム教の国家に征服され、聖堂がモスクに変わります。この結果がローマ教皇の権威につけた傷は大きく、宗教改革につながっていきました。

同時に、地中海貿易の要所を奪われた沿岸の都市国家は、従来の勢力を保てなくなりました。地中海の勢力図が変わったことによって、外海に目を向けることを余儀なくされた各国の動きが、後の大航海時代へと発展していきます。

また、ビザンツ帝国の文化人・知識人たちは、帝国の滅亡に前後して西欧諸国へと脱出していました。長きに渡ってビザンツ帝国内で受け継がれてきた古代ギリシャ・ローマの文化は、彼らの手によって西欧諸国に伝播し、後にイタリアから始まるルネサンスの基盤となります。

コンスタンティノープルの陥落は、宗教改革、大航海時代の到来、ルネサンスの始まりという世界史に欠かせない重大な出来事に大きな影響を与えたのです。

 
このようにコンスタンティノープルが落ち、ビザンツ帝国が「解体」されたことにより、地中海からヨーロッパ全体に渡って政治、経済、文化のすべてが変化していきました。

ビザンツ帝国の滅亡はただの国家の終焉ではなく、近世という新たな時代が「創造」されるきっかけになったといえるでしょう。

戦争による国家の興亡は悲惨なものですが、大きな歴史の流れのなかではそんな「解体」が、次の新しい時代を「創造」するのです。

 
【参考文献/サイト】
・島崎晋(1999)『目からウロコの世界史』PHP研究所.
・鶴岡聡(2004)『いっきに読める世界の歴史』中経出版.
・世界史の窓「コンスタンティノープルの陥落」http://www.y-history.net/