キャラコが起こしたファッションの「解体」と産業革命の「創造」


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ヨーロッパは今でこそファッションの最先端を進んでいますが、近代の一般民衆が身につけていた服は、けっして華やかとはいえませんでした。

その風俗が変わったきっかけとして、大航海時代にインドから入ってきたキャラコの影響を無視できません。特にイギリスでは、一般民衆のファッション様式を「解体」したばかりでなく、産業革命をも「創造」する力となって国を動かしていきます。

やがてイギリスから放たれた産業革命の波は、世界全体を工業化へ導いていきました。キャラコがなかったら産業革命はもっと緩やかな形で行われたのかもしれません。

今回はイギリス産業革命に火をつけたキャラコに注目してみました。

 

近世イギリスのファッション事情とキャラコ

近世イギリスでは、富裕層と一般庶民との間に明確な服装の違いがありました。

上流階級の服装はさまざまな布地をふんだんに使ったファッション性の豊かなものでしたが、庶民は毛織物や麻の布でできたシンプルな服装を1、2着しか持っておらず、ボロボロになるまで着まわしていたそうです。

しかも、一般庶民には上流階級の真似事すら許されていませんでした。服装にいたるまで身分による制限があったのです。

しかし17世紀に起こった清教徒革命から名誉革命にいたる一連の流れの中で、一般庶民の権利が拡大されると、庶民は富裕層の服装やファッションを取り入れるようになります。

そこで大人気となったのが、インドから輸入されるようになったキャラコでした。

キャラコとは、インド産の綿布のことをいいます。

それまでの服装によく使われていた毛織物に比べて安価で耐久性も高く、洗濯もしやすいキャラコは、庶民にとって理想的な布といえるでしょう。さらにインド独特の染色技法によるカラーとデザインは鮮やかで、民衆の心を奪うには十分すぎるほど魅力的でした。

このキャラコの普及によって、民衆の服装は劇的に変わることになります。それはまさに従来の服飾概念を「解体」し、ファッション革命となるような衝撃的な出来事だったのです

 

キャラコ論争と国産化への動き

この庶民の味方ともいえるキャラコに対して、イギリス国内では反発も起こりました。従来の毛織物業者にしてみれば、キャラコは強力な競合相手ですから、当然の反応かもしれません。

キャラコ輸入の反対デモなどが行われ社会問題になった結果、1700年にキャラコ輸入禁止法、1720年にはキャラコ使用禁止法が制定されます。

しかし、このときにはすでに後戻りできないほど、キャラコはイギリス民衆に深く根付いていました。

キャラコの輸入が国内の製造業者を圧迫するなら、国内でより安く大量に生産すればいい。そう考えた人々が、キャラコの国産化に向けて綿織物の生産技術を研究し始めます。

 

キャラコ国産化へ向けた織物技術の進歩が産業革命に繋がった

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1733年にジョン・ケイは、織物の横糸を通すときに用いる道具であるシャトルを飛ばすことで効率化させた「飛び杼(とびひ)」を発明しました。手でシャトルを動かす必要がなくなり、よりスピーディに布を織ることができるようになったのです。

この発明を皮切りに、織り機や紡績機の技術が格段に進んでいきます。水力や蒸気機関による紡績機の開発も進み、より効率的に生産できるように工業化に拍車がかかりました。

この織物の技術発達は多方面にも大きな影響を及ぼし、社会全体が工業化への道へ進んでいきます。19世紀に入るとイギリス国産の綿織物は、従来の毛織物を上回り重要な輸出品にすらなっていました。

このようにキャラコ国産化への動きが、織物生産技術の進歩と工業化に繋がり、イギリス産業革命の「創造」へ向けた大きな原動力になったのです。

 
インドからイギリスに輸入されたキャラコは、従来の服飾文化を「解体」し、一般庶民にファッション革命を起こしました。さらに、その服装の変化や民衆の欲求が織物技術の向上を促し、産業革命の「創造」にも貢献することになります。

この後、イギリスの産業革命はヨーロッパ諸国から遠く日本にまで伝播し、世界を工業化へ導きました。

こう考えると近世の産業発達は、キャラコがもたらした「解体」と「創造」が大きな影響を与えたといえるのです。

 
【参考文献/サイト】
・宮崎正勝編著(2002)『世界史を動かした「モノ」事典』日本実業出版社.
・島崎晋(1999)『目からウロコの世界史』PHP研究所.
・世界史の窓「産業革命」http://www.y-history.net/