「他人の目を気にしてしまう」性格を壊し、自由に生きられるようになった


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今日も日本のどこかで解体が起こっているようですが、それは、建物だけでの話ではありません…

「今日の私の壊しました!」と題してエピソードを募集したところ、持ち物、人間関係、悪い癖など、たくさんの人が葛藤しながら何かを壊し、そして現状を変えようと努力していることが分かりました。

この解体エピソードをシェアすることは、きっと似たような悩みを持つ人の助けになります。
温かい話、ちょっと笑える話、元気が出る話、様々な皆さんの今日の壊したエピソードをご紹介していきます。

今日は、Nさんの、「他人の目を気にしてしまう自分」を壊したことによって、新しい生き方を始められた、というエピソードをご紹介したいと思います。
 

集団の中で無難に過ごそうとしていた自分

私は「他人の目を気にしてしまう」という自分の内側の癖を壊しました。
数ヶ月前から趣味の音楽サークル活動を始めたのですが、集団の新しい環境になじもうとするあまり、言いたいことを自由に発言したり等身大の自分で振舞う、ということがずっとできずにいました。
本音と建前があるうち、「本音」なんてここで出すカードではない、という意識でいたのです。

ところがある日演奏中に、明らかに直した方がもっと良いパフォーマンスができるというパートをいくつか見つけてしまい、演奏全体の質もここを直せばかなり良くなる!という気持ちが自分の中にふつふつと湧いてきたのです。

私もサークルの一員。そして、全体の演奏が改善していくために意見を言いたいという気持ちが日に日に強まっていったのです。

純粋に「演奏の質がもっと上がって欲しい」という音楽に対する愛情のようなものが、「これを言ったらみんなにどう思われるだろう」という意識を超えた時、自然に行動に移していました。

 

自分の殻を破り、受け入れてもらえた

やっぱり言いだすまでには緊張しました。私よりも長い間そのサークルで音楽活動していた人が大勢いる中で、私のような新参者がサークル内の問題点を指摘するなんて生意気だと取られないか、人間関係が悪くなってサークル内にいられなくなってしまうかもしれないという恐怖もありました。

しかし、自分の意見を言えないような環境で、自分が情熱を傾けている音楽をやることもバカバカしい、もしそうなってしまったら、そんなところやめてしまえばいいのだ、と自分に言い聞かせてサークルの責任者に伝えることに決めたのです。

勇気を出して主宰者に自分の思ったこと、気づいたことをぶつけてみました。するとその責任者の方はあっさりと私の意見を受け入れてくれたのです。
気持ちを伝えるまでは怖い気持ちもありましたが、自分の純粋な気持ちを言えたこと、そして相手がその気持ちを素直に受け止めてくれたことに、感動を覚えました。

その瞬間は自分の殻を破れたことに、深い満足感を覚えました。

 

他人の目を気にしてしまうのは、人間の普遍性質、だからこそ思い切って壊してみよう

周りの目を気にしてしまうのは、社会的生き物である人間の普遍的な性質です。

他の霊長類にも他人の目を気にしてしまう傾向が確認されています。これは決して個人の問題ではなく、社会的ネットワークの中で繁栄していく生態系の遺伝子にプログラムされている性質なのです。ですので、自分のそのような部分に対しても否定的に思うことはナンセンスなことです。ですがあまりにもその傾向が強く、日々生きづらさを感じていらっしゃる方は、そのことを意識するだけでも行動パターンがだいぶ変わってくるかと思います。
特に日本人は「KY」になること、「場がシラける」、「周りから浮く」ことを非常に恐れる国民性を持ちます。
「周りから浮く」という烙印を押されるということは、日本では社会的な「死」を意味するという風刺も耳にしたことがあります。

協調性という点から見れば、日本人は世界でも類を見ません。サッカー場に落ちていたゴミ拾いをサッカーファンたちが試合後に自主的に行ったことは、世界でも話題になりました。東北大震災の際の日本人の行動も、世界中で報道されました。

自分の食べ物も限られた中で、他人におせんべいを分け与える人、配給の列も乱れることはありません。

自己の利益ではなく集団の利益を最大化することを美徳とする国民性は、私たち日本人が誇りに思うべきです。ですが「集団の和を乱さない」ということが行き過ぎると、異常なまでに「他人の目」を気にしてしまうようになるのです。

他人の目ばっかりを気にして生きていると、次第に息苦しさを感じ始めます。

アドラー心理学の「嫌われる勇気」という本が日本で長期にわたりベストセラーであり続けたのも、日本人の精神的疲弊を物語っているのではないでしょうか。

本当に自由に生きるためには、他者からの視線から自由になることが必要です。全ての行動する基準や動機は「自分がそれが好きか好きでないか、やりたいかやりたくないか」であるべきであって、他者から「あの人ちゃんとしてるね、間違ってないね」と言われるかどうかではありません。実を言ってしまえば、他人の目なんてものも存在しないのです。

他者の視線とはすなわち、他者の中に外在化した「自己の視線」なのです。

「他人からこう思われているはずだよね」といったような自意識をまずはかなぐり捨てることが大切なのです。

私は今回の音楽サークルで思い切って発言したことをきっかけに、自分がそれまで巨大な虚構の繭の中に生きていたことに気付かされたような気がします。