400年越しでヨーロッパの影響力が「解体」されたことで「創造」されたサンバ文化


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最近、日本各地でもサンバイベントが開催されるようになり、年々その人気は高まってきています。いまやブラジル文化の代名詞ともなっているサンバですが、その起源には植民地としてのブラジルの歴史と、ヨーロッパとの関係性が深くかかわっていることを知っていますか?
そこで、今回はブラジルに対するヨーロッパによる影響力の「解体」を通じたサンバ文化の「創造」についてみていきます。

 

ブラジル「発見」から奴隷制度廃止まで

まず、サンバが発展するに至った背景をみていきましょう。
ときは大航海時代。ヨーロッパ諸国がこぞって「新世界」の「発見」のために外洋に旅立ちました。
1500年、ブラジルはポルトガル人探検家カブラルによって「発見」され、ポルトガル領であると宣言されました。

やがて、砂糖のプランテーション農業を展開するなかで奴隷労働がおこなわれるようになります。ブラジルにおける奴隷は、アフリカから連行された黒人と、先住民であるインディオで構成されていました。17世紀後半には金鉱脈が発見されたことを受け、より多くの奴隷が使われることになりました。

その後18世紀半ばにインディオの奴隷化は禁止されますが、奴隷制度自体は存続しました。1822年、ブラジル帝国としてポルトガルから独立するとイギリスへの経済的従属が強まります。イギリスは自国での奴隷貿易を禁止していたことから、ブラジルにも圧力をかけ、1850年にブラジルの奴隷貿易は廃止されます。最終的に奴隷制度自体が廃止されたのは1888年のことでした。

 

奴隷・労働者の音楽として発展したサンバ

さて、サンバに話を戻しましょう。くわしくはわかっていませんが、サンバの起源はアフリカの宗教音楽のリズムだとされ、奴隷として連行されてきた黒人の間で発展したと言われています。
特徴的なのは、アフリカのリズムをベースに、ポルトガルのメロディーとインディオのステップが取り入れられたことです。奴隷が多く上陸したブラジル北東部のバイーア州を中心に広まりましたが、奴隷制度廃止に伴い、多くの黒人が仕事を求めてリオデジャネイロに移るとサンバは本格的に発展しはじめます。

しかし、この頃はまだブラジル文化におけるヨーロッパの影響は大きく、サンバは奴隷・労働者文化の域を出ることはありませんでした。歴史的に支配層が愛好してきたイギリスやフランスをはじめとするヨーロッパ文化が上位という考え方が根強かったのです。

 

ヨーロッパの影響力の「解体」と国民音楽としてのサンバの「創造」

20世紀に入ると、ブラジルのナショナリズム運動が盛んになります。それまでブラジルが模範としてきたヨーロッパの多くの国々が第一次世界大戦で弱体化したことを受け、その影響力も弱まったのです。文化においても例外ではなく、ブラジル独自のポピュラー音楽としてサンバに注目が集まります。

そして、1916年12月、「ペロ・テレフォーニ」というサンバ曲が発表されます。この曲は歴史上初めて商業化されたサンバ曲であると言われており、サンバ人気をブラジル全土に広めました。

やがて、1930年にヴァルガスが軍事クーデタにより大統領に就任すると、ヨーロッパの影響力によらないブラジルのナショナリズム「ブラジリダーデ」の模索が国を挙げて始められました。そのなかで、アフリカ・ポルトガル・インディオの要素を含むサンバは多民族で構成されたブラジルを象徴する音楽として積極的に広められていき、世界で愛されるようになるのです。

 

植民地として開発されてきた経緯から、ブラジルでは長らくヨーロッパの影響を強く受けてきました。しかし、20世紀初頭にヨーロッパが弱体化し、ブラジルのナショナリズムが目覚めるにつれ、ブラジルの多民族性を象徴するサンバへの注目が集まってきました。

このように、400年以上続いたヨーロッパによる影響力が「解体」されたことでブラジルを象徴するサンバ文化が「創造」されたのです。