徳川政権の解体と明治政府の創造、それは前例のない冒険だった


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出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

決してスムースにはいかなかった徳川政権解体

1868年、日本の下級武士達は268年続いた徳川政権を打倒し新しい国家体制として明治政府を打ち立てたことは誰もが周知の事実でしょう。
その中において日本は、アジアの中でも早く近代国家への道を進み始めたことにより、海外からの植民地化の危機からも脱しています。

文章で書けば維新政府はいとも簡単に「封建制」を打倒して近代国家への道を歩んだに見えますが、決してスムースに展開されて行ったわけではありません。

200年以上に渡り築き上げられた精微で分権的システムを打倒して、新たな日本国家としての中央集権システムを打ち立てることがいかに困難な作業だったのかは今考えても想像に難くないと思います。

現代と比較し迅速な通信網や輸送手段はまだ未発達な状況の中、当時200年以上も続いて来たシステムを破壊し断ち切って新たな政権を樹立するということは、想像をはるかに上回る困難な事業だったに違いありません。

そんな困難な事業の成功の鍵は何だったのでしょう?徳川政権の解体と明治政府の創造にまつわる革新的事実をご紹介しましょう。

 

若さゆえの外交的自覚と経済的自立心

新政権の中枢で活躍した人物はどれも下級武士達であり、彼らの年齢もまだ若く、統一国家を運営するという経験も皆無であったというのが驚く点です。

例えば維新前年の1867年の薩摩の長老といわれた西郷隆盛や大久保利通でさえも、未だ40歳と37歳でしかありません。
現代の会社組織や政治の舞台ではこの年令はまだ若造であることがわかります。

更に長州筆頭の木戸孝允は34歳、井上馨は32歳、伊藤博文はまだそれより若い26歳に過ぎなかったのです。
暗殺された無血革命の立役者である坂本龍馬に至ってはまだ32歳の若さです。
更に明治初期の外交・財政を担った大隈重信も若干29歳になったばかりであったのです。

彼らは幕末憂国の志士ではありましたが、近代国家を運営する政治家でも無ければ官僚でもなかったわけですから言わば素人の集まりといえます。
こうした幕末の志士達を維新政治家・維新官僚に成長させたのは、外国の列強諸国と対峙しなければならないという強い外交的自覚です。

それと日本国家の独立のためにも不安定な財政基盤を立て直さなければならないという、火の玉となって燃えるような経済自立心がなくては明治維新はなし得ることは出来なかったのです。
若さこそが将来への野心を生み、成功の鍵となったのです。

 

出身母体を解体するという創造的対応

そして明治初期の外交と財政を担った大隈重信をはじめとする幕末の志士たちが、外交を通じて独立国家の官僚から政治家になっていく中で、さらに彼らの出身母体だった士族層解体を必然化していくことになります。
この日本国家の財政再建のために出身母体を解体するという課題は、若い維新官僚達はきわめて創造的な対応を示していたのには驚かされます。

例えば、旧武士階級という身分を公債で買い入れて、さらにその公債を産業資本に転換するという発想を取り入れた構想は、当時としては画期的なことであり、創造的対応者である企業家がいなければ実現はしなかった事になります。

斬新な解体が新たな価値を生み出すという考え方も成功の理由だったのです。

 

明治維新は、封建制解体と工業化における士族層の具体的役割について、実証的に検証した研究はまだ少ないです。

しかし明治の革新的制度変革のあり方と、それに適応した旧士族層の創造的な対応を解き明かしていくと、明治維新における「解体と創造」がより明らかなものとなってくると思われます。