タックス・ヘイブンである荘園の「解体」に着手し、院政を「創造」した白河上皇


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「パナマ文書」が世界中で話題になっています。この書類は、パナマの法律事務所から流出したマル秘データです

そこに記述されていたのは、世界の有名企業や富裕層の名前でした。日本人も例外ではありません。

自国での高い法人税や相続税を回避するため、税率の低いパナマでペーパー・カンパニーを設立し、安い税金をパナマで支払い、自国では税金を支払わないというカラクリです。

困ったことにこの行為は非合法ではないのです。またタックス・ヘイブン(租税回避地)はこれといった産業のない小さな国にとって主要な「産業」になっています。

けれども国富が流出した国は、自国に支払われるべき多額の税金が入ってこなくなるという由々しき問題に発展するのです。

そしてそのツケは最終的に一般民衆へ回ってくるのですが、このように合法的に税金を逃れようとする人はいつの時代にもいました。その代表が平安時代の藤原氏です

 

脱税の温床であった貴族や大寺院の「荘園」

7世紀に実施された大化の改新以後の日本は、建前上ではすべての土地は国が所有していました。

けれども有力貴族が新しく開墾した土地は、奈良時代にできた「墾田永年私財法」によって私有が認められることになります。

ここまでなら人情として理解できるところですが、有力貴族たち、特に藤原氏は、中央政府や地方政府に圧力をかけ、自分たちの土地に税金がかからないような特権を得ていました

これを「不輸(ふゆ)の権」と言います。歴史の授業でこの言葉を聞いた方も多いでしょう。

現代において、有力者が国税庁や地方の税務署から特別な免税特権を享受していたとしたら、一般国民によって袋叩きにされると思います。

けれども平安時代にはメディアも選挙もありません。むしろ、「寄らば大樹の陰」ということで、藤原氏を代表とする有力貴族に「書類上」自分の土地を寄進し、藤原氏の力を背景に不輸の権(免税権)を手に入れる人たちが大勢現れます

 

そして有力貴族は名義貸しの手数料まで入ってくるというありさまでした。

かくして国の歳入は激減し、都は治安維持すらままならず、日本国内の至る所が荘園というタックス・ヘイブンだらけになっていったのです

繰り返しますが、摂政や関白、それに主要な官位を独占している藤原氏は税金を支払っていません。その莫大な資金を使ったからこそ、平等院鳳凰堂などの豪華絢爛な寺院を自前で建立することができたのです。

 

天皇はなぜタックス・ヘイブン(荘園)を解体できなかったのか

藤原氏の権力掌握方法は、まず自分の娘を天皇に嫁がせます。

そして生まれた子供が男の子であれば幼い時に天皇に即位させ、自分は天皇の外祖父として摂政や関白という座に就任するという方法でした。

また左大臣や右大臣、そして大納言といった高官も、藤原氏一門がほぼ独占しているときもあったのです。

天皇が朝議の場で、「みなさんの荘園から税金をとりたいのですが」などと発言したところで、並み居る高官たちに猛反対されますし、そもそも自分の後ろ盾となってくれている祖父に逆らうことができませんでした

 

タックス・ヘイブン(荘園)解体を試みた後三条天皇

ところが平等院鳳凰堂を建立した藤原頼道には、娘を天皇に嫁がせたものの、男の子が生まれませんでした。

そこで母方の祖父が藤原氏ではない後三条天皇が即位します。

この天皇は名義貸しなどによってタックス・ヘイブンと化した荘園を徹底的に調査しました。

そして審査基準に合わない荘園からは税金を徴収し、あるいは国有化することにしたのです。

この政策を「延久の荘園整理令」といいます。それまでにも「荘園整理令」が発動されたことはありましたが、地方の役所がバラバラに所有権の審査をしたので効果は上がらなかったのです。

けれども後三条天皇は、中央政府に新たな役所を設け(荘園券契所)、一元管理のもとで所有権を審査し、多くの荘園で無税特権が停止されることになります。

 

院政という政治手法を「創造」し、タックス・ヘイブン(荘園)解体に着手した白河上皇

平安時代の華麗なる王朝絵巻は、身も蓋もない言い方をしますと、合法的な脱税資金によって描きあげられてと言っても過言ではありません。

藤原摂関家とはタックス・ヘイブンによる巨額なアングラマネーで成り立った一族だったのです。

そこに後三条天皇の息子で、さらに個性の強い白河天皇が登場します。

白河天皇は即位からしばらくして退位し上皇となりますが、ここで権力を手放したわけではありません。

むしろ正式な朝議の場に出ず、天皇である息子を陰で操ります。また個人秘書団(院近臣)と私設軍(北面の武士)を形成し、藤原氏を中心とする朝廷とは全く別の権力機構を「創造」しました。
奈良時代に藤原不比等の娘である光明子が聖武天皇の皇后になって以来、300年以上にわたり朝廷に君臨し続けてきた藤原氏の権力は、ここから「解体」されていくのです。

ただ残念ながら、タックス・ヘイブンである荘園そのものがすべて消滅したわけではありませんでしたし、白河上皇自身が多くの荘園を抱え、自分の愛人を孫に押し付ける(!)など、ダークな一面も持ち合わせていました。

また貴族ではなく、寺院の保有する荘園を没収しようとすると、都に僧兵が押し寄せ、「祟りがあるぞ」と上皇を脅迫することも頻繁に起こったのです。

 

白河上皇ほどの政治家でも、鴨川の水、サイコロの目、そして山法師(比叡山の僧兵)は自分の思い通りにならないと嘆きました。

荘園が完全に「解体」されるには、なんと豊臣秀吉の時代を待たなければなりません。

けれども、国家機関の中枢で、藤原氏は何百年にもわたり税金逃れの策謀を巡らせていました。

平安時代の後期という早い時点で藤原氏の荘園「解体」に着手し、彼らの力を削いだ白河上皇の功績は、実に大きなものと言えるかもしれません