始皇帝の中国統一は前王朝の「解体」と新政治体制の「創造」だった


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出典 https://ja.wikipedia.org/wiki

古代中国における紀元前771年から紀元前221年までを春秋戦国時代といいます。
群雄割拠の時代で、日本で言えば戦国時代のような状況。その中で他国を滅ぼし中国統一を成し遂げたのが秦の始皇帝でした。

義務教育の世界史で誰もが習った有名な出来事ですが、実は始皇帝が行ったのは中国統一だけではありません。
それは800年に及ぶ古代王朝の「解体」と、2000年にわたって続く皇帝を中心とした国家体制の「創造」だったのです。

 

春秋戦国時代の基盤にあった周王朝

冒頭に述べた中国の春秋戦国時代は、実際は「東周」という王朝時代でもありました。
中国史で現在確認されている最も古い王朝である「殷」を滅ぼして成立した「周」は、中国全土を統治するのに一族や功臣を諸侯として各地方に配置しました。いわゆる封建制度です。

この後、北方遊牧民族の侵攻によって都を追われた周王家は洛陽であらたに国家を興します。これが東周王朝であり、それまでを「西周」と呼んで区別します。

この頃になると諸侯は権力を失った東周を利用し全土に号令しようとします。このまだ東周の権威が残っていた時代が春秋時代です。

さらに時代が進むと東周は権威すら失っていき、諸侯はそれぞれ王を名乗って国を興します。東周が一つの小国家になってしまった時期が戦国時代となります。

しかし落ちぶれたとはいえ東周はまだ国としての形を保っており、各国も敬意を払ってはいました。
この東周を滅ぼしたのが秦の始皇帝だったのです。

 

中国の統一と周王朝の「解体」

秦は東周を含めた各国を攻略していき、紀元前221年に戦国時代最後の国家である斉を滅ぼして中国全土を完全に統一することに成功します。

同時にそれまで行われていた周王朝をモデルにした統治制度を一新しました。代表的なものは地方の統治制度を世襲である封建制から役人を配置する郡県制に変え、中央集権の政治体制に改めたことです。これによって東周王朝で起こったような各国乱立を未然に防ごうとしました。

また通貨をはじめとした様々な単位や書体を統一し、交通網も整備しています。それまで様々な国の寄り集まりだった中国を一つの国に変えたのです。

そして王を超えた統治者である「皇帝」という新たな称号を作り、古き分裂時代の終焉を知らしめました。
秦の始皇帝の中国統一は、東周王朝の政治体制を根底から壊すことだったのです。

 

新しい中国の形を「創造」した始皇帝

このように、秦の始皇帝は春秋戦国時代において他国を滅ぼし中国を統一しただけではありません。東周王朝を「解体」し、皇帝による新しい統治制度を「創造」したのです。

秦王朝自体はあまりにも急激な改革と国民への過剰な負担によって、旧体制への復帰を目指した諸侯の反乱が続き、たった15年で幕を閉じます。
それでも旧体制に戻ることはありませんでした。皇帝による中央集権的な統治制度は、次の王朝である「漢」が受け継ぎ定着させます。

その後も様々な国や民族が中国を幾度も統一しました。各王朝が用いた統治方法の詳細はそれぞれ違います。新しい制度を創造したり、過去の政治を復活させたりと多種多様です。
しかし、そのどれもが「皇帝」という統治者が中心となり国を治めたことは変わりませんでした。

秦の始皇帝が「創造」した皇帝という統治方法は、1912年に「清」が滅亡するまで約2000年もの間、中国という国家の形を定めたのです。

 

つまり、秦の始皇帝の偉業とは初めて中国を統一したということよりも、古き時代を壊し新しい国のあり方を作り上げた点にこそあるといえるでしょう。

それは寿命を迎えた東周王朝に繋がる古い政治体制を「解体」し、皇帝による活力にあふれた新しい時代の「創造」でした。
現在の我々にロマンを感じさせる中国史の大半は、秦の始皇帝が作り上げた皇帝の歴史でもあるのです。

 

【参考サイト・文献】
■鶴岡聡(2004)『いっきに読める世界の歴史』中経出版.
■布目潮ふう、山田信夫編(1995)『新訂 東アジア史入門』法律文化社.
■ウィキペディアの執筆者. “始皇帝”. ウィキペディア日本語版. 2016-05-10. <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&oldid=59676598>.