内乱の1世紀にみる共和制ローマの解体とローマ帝国の創造


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古代国家の1つであるローマは、ある一点でとても興味深い歴史を辿った国家といえます。それは、共和制から帝政へ移行したという点です。一般には王政や帝政から革命を経て、共和制や民主制が生まれるものと思われがちですが、はるかな昔にその逆の発展を遂げたのがローマでした。

しかも共和制が「解体」し、帝政が「創造」されるまで、実に100年もの時間が必要でした。それが現在「内乱の1世紀」と呼ばれている時代です。

 

共和制ローマの概要

長い歴史がある国家ローマは、その時代によって政治制度が移り変わっていきました。そのうち紀元前509年から紀元前27年の間、共和制が採用されていたのです。

共和制ローマの政治は、市民による民会の選挙によって選ばれた政務官が行いました。その政務官のなかでも特に重要な地位が2名のコンスル(執政官)で、今でいうなら大統領のようなものでしょう。そのコンスルの諮問機関として政務官が専任した元老院がありました。この元老院は建前は諮問機関でしたが、実質は大きな影響力を有した統治機関でした。

選挙といっても1人1票の直接選挙ではありませんし、市民にはパトリキ(貴族)とプレプス(平民)と明確な身分差が存在しましたので、現在の共和制イコール民主主義のイメージとはやや違うかもしれません。

しかし国家元首となる執政官を選挙によって任命し、王を必要としなかった政治制度は、確かに1人の人間に権力が集中する危険性を低くし、市民による権力の監視を制度化したものではあったのです。

この共和政が傾くきっかけは、皮肉にも腐敗した共和制を改革し平民の権利を高めようとした、二人の兄弟の悲惨な最後からでした。

 

グラックス兄弟の改革の挫折と内乱の1世紀の始まり

共和制ローマは紀元前146年、第3次ポエニ戦争でカルタゴに勝利することで、名実ともに地中海を支配しました。しかし、同時に危機的な状況を内に抱えることになります。獲得した領土は貴族や富裕層のみに分配され、一般的な平民は恩恵に預かれませんでした。

さらに、ローマの軍事力を支えていたのは平民による重装歩兵で、戦争中働き手を兵隊に取られていた中小農家は、田畑が荒れ一気に貧民化しました。

つまり、戦争の勝利によって貧富の差が大きくなったばかりか、ローマの繁栄を支えている軍の主力である平民が生活できなくなり、弱体化の危機にさらされていたのです。元老院はすでに柔軟性を失っており、ローマは表向きは栄華を誇りながら、その影で滅びの芽が顔を出していました。

この危機を察知し、根本的な改革を推し進めようとしたのが、グラックス兄弟でした。貴族出身ではありましたが、平民の権利を守る護民官に選出されたグラックス兄弟は、富裕層の土地所有を制限し無産市民に分配し直すことで、平民の生活向上とローマ軍の維持を試みました。

しかし元老院保守派との政争に破れ、兄ティベリウスは撲殺、弟ガイウスは自殺に追い込まれたばかりか、その支持者も死刑に処せられるなど、まさに非業の最後を遂げます

この兄弟の改革は、ただの失敗に終わりませんでした。実はそれまでのローマでは内部の争いにおいて、少なくとも表向きは暴力による解決はなかったのです。

しかしグラックス兄弟は上記のように、暴力的な手段によって舞台から追い落とされました。この事件によってローマの政争は、言論と選挙による争いから武力闘争に変わっていきます。それはまさに力による統治の始まりであり、この後約100年に渡って内乱状態に入りました。

これが後世「内乱の1世紀」と呼ばれる時代の始まりです。

 

共和制の「解体」と「創造」されたローマ帝国

内乱の1世紀では、貴族層と平民層で争いが多発したばかりか、スパルタクスの反乱のように奴隷身分の者が自由を求め立ち上がったり、都市間の争いが生じたりと、まさに内乱が続きました。共和制政治の自浄作用は完全に失われていたのです。

そのような時代に、「賽は投げられた」の言葉で有名なガイウス・ユリウス・カエサルが現れます。その優れた政治的軍事的才能によって終身独裁官という最高権力を得たカエサルは、さらに王へ至ろうとした稀代の英雄でしたが、やはり暗殺という暴力によって歴史から退場しました。

ですが、カエサルが行った共和制制度の「解体」と権力の集中化が、後継者となるアウグストゥスに受け継がれ、帝政の礎になったのです。

共和制から帝政というと時代を逆行するかのように感じますが、完全に腐敗してしまった共和制は、もはや戦乱のゆりかごにしかなっていませんでした。争いの原因となってしまった共和制は内乱の1世紀を通じて「解体」され、カエサルとアウグストゥスによって帝国が「創造」されることで、ローマはやっと安定したのです

ローマ帝国は、紀元前27年のアウグストゥスが元首として即位してから、西暦1453年にコンスタンティノープルの陥落によって東ローマ帝国が滅亡するまで、国家体制が変容しつつも約1500年もの間存続しました。

 

このように、本来はより良い制度であったとしてもその自浄作用がなくなってしまうと、害悪をもたらします。そんな制度を「解体」し、その時代にもっとも適した制度を「創造」することで、人の歴史は繋がってきたのです。

【参考文献/サイト】

・島崎晋(1999)『目からウロコの世界史』PHP研究所.
・鶴岡聡(2004)『いっきに読める世界の歴史』中経出版.
・インドロ・モンタネッリ(1976)『ローマの歴史』中央公論社.
・世界史の窓「内乱の1世紀」http://www.y-history.net/appendix/wh0103-049.html