奈良時代における社会不安の「解体」と東大寺大仏殿の「創造」


todaiji

出典 http://www.eonet.ne.jp/

奈良時代といえばどんなイメージがあるでしょう。「なんと(710年)きれいな平城京」という語呂合わせや、正倉院展で見る美しい芸術品などの影響もあるのでしょうか、穏やかにして華やかな印象を抱いている方も多いと思います。

けれども奈良時代は決してそのようにのんびりとした時代ではありませんでした。有力者が突然冤罪で葬られ(長屋王事件)、天然痘が大流行をし、政権中枢の人物(藤原四兄弟)まで次々とこの病気で亡くなりました。

挙句の果ては九州で中央政府に対して反乱を起こす者まで現れた(藤原広嗣の乱)時代だったのです。

 

人々を恐怖のどん底に落とし入れた長屋王の呪い

のちに東大寺大仏殿を建立した聖武天皇が即位したとき、政権を補佐していたのが天武天皇の孫にあたる長屋王という有力者です。彼の邸宅は広大で、天皇の住む平城宮のすぐそばにありました。それだけでも長屋王の権勢が偲ばれると思います。

けれどもこの人物の存在を疎ましく思っていたのが藤原氏でした。長屋王のライバルであった藤原四兄弟は、彼に謀反の疑いをかけ自殺に追い込みます。この四兄弟はその後順調に出世を重ねていきました。実はそこから世の中は不安のどん底に陥っていくことになります。その原因が天然痘の大流行でした。

現代人なら天然痘はウィルスの感染で発症することを知っています。けれども当時の人にはその原因を知る由はありません。

特定の疾患に偏見を持つのは良くないことですが、天然痘は顔中に発疹ができ、見るも哀れな姿で亡くなっていくという恐ろしい病です。命が助かったとしても、顔中に痘瘡が残ってしまいます。

そしてあろうことか、長屋王を落とし入れた藤原四兄弟全員が天然痘で亡くなってしまいました。当時の人々、そして聖武天皇自身も、この疫病の流行は長屋王の呪いであると考えるようになったのです。

 

そして戦乱が勃発する

藤原四兄弟の死後、聖武天皇を支えていたのは、橘諸兄という皇族出身の人物と、そのブレーンである吉備真備と玄昉という唐へ留学したエリート官僚でした。

しかし藤原氏は政権中枢から遠ざけられ、特に不満を抱いていたのが藤原四兄弟の一人、宇合の息子である広嗣でした。

彼は九州へ左遷され、この政権を転覆させようと乱を起こします。のちに藤原広嗣の乱と言われる出来事です。この乱が勃発したとき、なんと聖武天皇は平城京を捨て、京都南郊にある木津川のほとりに一時都を移します(恭仁京)。

いざとなれば木津川から伊賀へ抜け、東国へ脱出しようとしたのでしょう。藤原広嗣の乱はそれほどショッキングな出来事だったのです。

 

社会不安の「解体」を目的とした東大寺大仏殿の建立

気分が動揺していたのは聖武天皇だけではありません。民心も同じように不安に駆られていました。当時大衆から絶大な支持を受けていたのは行基という一介の僧侶でした。朝廷は彼の人気を恐れるあまり、一時は弾圧を加えるまでになっていたのです。

歴史に「もし」という仮定はできないと言われますが、この状況のまま時代が推移していれば、ひょっとすれば日本における中央集権体制が崩壊していたかもしれません。

この時代、聖武天皇が頼ったのは仏教の力でした。仏教の教えを広めることによって、世の中の不安を鎮めようと考えたのです。まず地方を代表する寺院として「国分寺」を国ごとに建立しました。中央本線の国分寺駅は、近くに「武蔵国分寺」があったことの名残です。

そして国分寺の中心として建立されたのが、平城京の東大寺大仏殿でした。当時の国家予算の数倍を投入した大プロジェクトだったのです。聖武天皇はこの大仏殿建立に当たって、行基の影響力を頼りにし、自ら面会を申し出たほどでした。

それまでは対立していた聖武天皇と行基でしたが、仏教の力で社会不安を「解体」するという共通目標がありました。

行基は快く聖武天皇の申し入れを受け入れ、行基を支持していた大衆もこの大仏殿建立に積極的にかかわるようになったのです。

 

社会不安「解体」の象徴として「創造」された大仏殿

大仏建立の詔から9年後の752年、ようやく東大寺大仏殿は完成します。この開眼供養には1万人以上の人々が参加しました。日本国が成立して以来、間違いなく最大のイベントだったと思われます。おそらく東京でオリンピックを開催する以上の効果があったのではないでしょうか。

このように巨額な予算を費やした東大寺大仏殿が「創造」されましたが、人心が一体となり国家崩壊の危機を免れたと言っても過言ではないほどの影響を及ぼしたのです。