出版文化の「解体」を乗り越えて「創造」された日本のマンガ文化~「漫画」から「マンガ」へ~


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出典 http://news.mynavi.jp/news/2013/02/25/131/

日本のマンガは海外でも多くのファンを生み、「Manga」という言葉がそのまま通じるほど世界的な人気を得ています。そんな日本のマンガ文化が現在のかたちとなるまでには1000年近い長い歴史がありましたが、決定的な転換点となったのが太平洋戦争により日本の出版文化の根幹が揺るがされたことです。

それでは、日本の「漫画」がどのように生まれ、出版文化の「解体」をどのように乗り越え、「マンガ」文化の「創造」へとつながったのかみていきましょう。

 

日本のマンガ文化の源流~黎明期の「漫画」

現代のマンガ文化につながる最古の作品が描かれたのはいつごろのことでしょう?

実は日本最古の「漫画」は、平安時代にまでさかのぼり、国宝「鳥獣戯画」だと言われています。ウサギやカエルを擬人化して戯画的に描いていることに加え、「効果線」(スピード感を表す複数の平行線)など現代のマンガで用いられる技法も多く使われています。

その後、絵巻物や浮世絵などのかたちでゆるやかな進化を遂げますが、これらは長らく庶民にとって一般的なものではありませんでした。漫画が庶民の文化となるきっかけを作ったのは幕末に刊行された日本で最初の漫画雑誌です。これは当時外国人居留地であった横浜でイギリス人が発行した英語の雑誌で、これを参考に日本語の漫画雑誌も続々と生み出されました。

明治に入ると日本最初の連載漫画が登場し、昭和初期にかけて、「コマ割り」や「ふきだし」といった現代のマンガには欠かせない技術も定着します。しかし、この時代の漫画はギャグや風刺が中心で、現代のマンガに見られるドラマ性には欠けていました。

やがて太平洋戦争へと突入し、娯楽としての漫画はしばらく表舞台から姿を消します。

 

戦後占領期における出版文化「解体」の危機

さて、長かった太平洋戦争は、漫画の出版環境にも暗い影を落とします。戦争によって多くの街が焼け野原となり、物不足に陥りました。そのため、ほとんどの身の回り品は配給によって入手するしかなく、印刷用紙も統制の対象となっていました。さらに、GHQが厳しい検閲をおこなったため、出版できる内容にも大きな制約が設けられ、日本の出版文化は「解体」の危機に瀕していました

そのようななか、娯楽に飢えた庶民の声にこたえるように、統制と検閲の網をかいくぐって「赤本漫画」と呼ばれる漫画雑誌が登場します。赤本漫画は統制の対象でない種類の紙を使い、通常の出版物の流通ルートではないおもちゃ屋や駄菓子屋、露店などで売られました。赤本漫画は検閲の目を逃れた自由な内容だったため非常に人気を呼びました。

 

アメリカ文化の影響を昇華し、マンガ文化が「創造」された

1947年、手塚治虫が赤本漫画として発表した「新宝島」は、マンガ文化の「創造」に向けた転換点となりました。この作品において画期的だったのは、印刷物である漫画に「映画的手法」を取り入れたことと、当時の常識を打ち破る長編ストーリー作品であったことです。

手塚がこのような革新的な手法を生み出すに至った背景には、手塚自身が幼少期よりディズニーやチャップリンといったアメリカ文化に慣れ親しんでいたことがあります。手塚治虫のディズニーアニメへの心酔ぶりはなかなかのもので、戦後「白雪姫」や「バンビ」が公開されると何十回も見たと言います。

戦後、こういったアメリカ文化の影響が加速されたことに加え、戦争を体験した日本人が共有した「無常観」が昇華されたのが手塚作品であり、戦前の「漫画」とは一線を画す、大人にも子どもにも楽しめる高度なエンターテインメントである「マンガ」となったのです。

 

「漫画」の歴史は1000年近くにものぼる一方で、現在わたしたちが慣れ親しんでいる「マンガ」文化は戦後急速に発達したことがわかりました。こうした発達の陰には、太平洋戦争による物理的な被害や戦後の言論統制により出版文化が危機的な状況に陥ったことがあるのです。

しかし、こうした出版文化の「解体」を乗り越えたからこそ新しいマンガ文化が「創造」され、世界で愛されるに至ったのです。