遣唐使の「解体」と国風文化の「創造」


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出典 http://www.geocities.jp/

竹取物語や源氏物語といえば千年前に平仮名を使って書かれた作品です。星霜を経た今もなお、日本人は「かぐや姫」や「光源氏」に愛着を持ち、現代の文化にも強い影響を及ぼし続けているようです。

文学作品だけではありません。お馴染の10円玉には、日本を代表する建築物として、寝殿造を取り入れた宇治の平等院鳳凰堂が刻まれています。

平仮名や寝殿造は日本で独自に発展を遂げ、国風文化とも呼ばれます。ではきらびやかな平安王朝絵巻はどのように「創造」されたのでしょうか。それは中国大陸から文化を輸入してきた遣唐使の「解体」から始まったのです。

 

遣唐使が持ち帰った、統一国家日本を「創造」するシステム

「文明は海外から来ると日本人は考えている」作家の司馬遼太郎氏がかつて述べていた言葉です。聖徳太子の時代に始まる遣隋使から遣唐使の廃止まで約300年、日本は大陸との交流を進めていったのです。

では遣唐使最大の功績は何でしょうか。それは律令制度を取り入れることによって、日本が統一した中央集権国家を形成するシステムを輸入したことです。

それまでの日本は天皇を中心としていたとはいうものの、それはあくまでも慣習の中で漠然と培われた仕組みでした。

律令制度は日本の国柄にそぐわない部分もありましたが、「法の支配」とでもいうべき考え方で、国家を運営していくノウハウを輸入したのです。

遣唐使が最盛期を迎えたのは、奈良時代から平安時代の初期でしょう。唐の都長安は、さまざまな民族が交流する国際センターの様相を呈していました。

天台宗や真言宗の祖である最澄や空海がともに唐へ留学したのはあまりにも有名な話です。政治制度から仏教の経典に至るまで、当時の日本人は大陸から貪欲に技術や知識を持ち帰りました。

 

コストパフォーマンスが悪化した遣唐使の「解体」

文明や社会制度というものは、右肩上がりに進歩していくものではないようです。

隆盛を誇っていた唐の国も、やがて内乱が起こり衰退していきました。その反対に律令制度を定着させた日本は、新たなシステムを学ぶという必要性が乏しくなっていきました。

そのうえ唐へ渡航するのは命がけの冒険でした。新羅が朝鮮半島を統一するまで、遣唐使の航路は朝鮮半島から黄海の沿岸を進み、比較的安全な船旅だったのです。

けれども唐と新羅の関係が悪化し、遣唐使の航路は奄美大島あたりから、一気に東シナ海を突き進むという危険なルートをとらざるをえませんでした。船が転覆して、優秀な留学生の命が数多く失われたのです。

やがて遣唐使を派遣することで得る利益と損失が逆転し、ついには遣唐使そのものが「解体」されました。

 

遣唐使の「解体」が、やがて国風文化の「創造」につながる

万葉集は日本文学に残る最高傑作ですが、これを原本で読むのは骨が折れます。なぜならこの頃には平仮名がなかったからです。一例を挙げてみましょう。

「田児之浦従 打出而見者 眞白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留」

筆者にはさっぱりわかりません(笑)。これは万葉仮名といって、助詞などに適当な漢字を当てているためです。では平仮名を使って表現してみましょう。

「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」

これで現代の私たちにも十分理解できる表現になりました。

平仮名の登場で、漢字だけに頼ることなく簡単に自分の考えを文章で表現できるようになり、やがては物語や日記文学が隆盛を極めていくのです。

夫との不和を綴った「蜻蛉日記」や、恋愛暴露本の元祖(?)ともいえる「和泉式部日記」は平仮名なくしては成立しませんでした。文学の世界では女性の感性が輝きを放ち始めるのです。

世界最古の長編小説である「源氏物語」の登場も、この時代の流れの必然だったと言えるのではないでしょうか。

 

一見、遣唐使の「解体」は現代まで影響を及ぼしているようには見えません。けれども国風文化が「創造」されず、万葉仮名が現代まで続いていたとしたら、日本文化は紛れもなく今日とは別の姿をとどめていたでしょう。