「解体に次ぐ解体」で「創造」された鎌倉幕府


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出典 http://blog.goo.ne.jp/jirou003/e/b30c60f8cd37c0991c4953fdade12aaa

平安時代の末期、武家の棟梁である源氏と平家が戦ったことは実に有名です。

流人である源頼朝のもとに関東の武士たちが集結し、源氏に忠誠を誓いました。

そして全盛を極めていた平家一族は源氏の軍勢に追い詰められ、ついに壇ノ浦で滅亡したのです。

その後、源頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉幕府が正式に朝廷から認められました。歴史の教科書ではここから武士の政権が始まると記述されていますがそれは本当でしょうか。

武士が朝廷と対等に渡り合うには、自分たちが忠誠を誓っているはずの源氏一族を「解体」する必要があったのです。

さて、それはどういうことなのでしょうか?

 

最初に解体された平家一族

平家が滅びたのは、武士でありながらやがて朝廷の中で貴族のように振る舞い、各地の武士の権利を考えなくなったからです。

武士の目指していた権利獲得とは何か、それは自分たちが開墾した土地を自分たちの所有物であると正式に保証してもらうことでした。

一介の流人に過ぎなかった源頼朝が幕府を開くことができた理由を考えてみましょう。そのキーワードは「御恩と奉公」という言葉です。将軍である頼朝が、御家人である武士の土地所有権を正式に認める代わりに、御家人たちは鎌倉幕府を守る義務を負ったのです。

京都の朝廷や貴族から絶えず土地所有権を脅かされていた武士たちですが、頼朝によってやっと枕を高くして寝ることができるようになったのです。

けれども、またもや武士たちの気持ちを不安にさせる出来事が起こるのです。

 

京都に未練のあった源頼朝

頼朝は京都に生まれ京都で育ちました。いくら征夷大将軍になったところで、都への憧れが捨てきれなかったのでしょう。

幕府の基盤が整うとともに、頼朝はかつての藤原氏や平家と同じように、自分の娘を天皇家へ嫁がせようとしたのです。

平治の乱で滅びた頼朝の父親は源氏の棟梁だったとはいえ、京都での位は決して高くはありませんでした。それだけに、頼朝は源氏の名誉のためにも、やがては天皇の外戚になりたいと思ったのでしょう。

けれども東国の武士にとって、頼朝の願望は危険な火遊びとしか映りませんでした。頼朝の娘を入内させることは、やがて幕府が朝廷に取り込まれる恐れがあったからです。

頼朝が亡くなったあと、3代将軍である実朝はもっと露骨に京都に接近していきました。頼朝も2代将軍の頼家も、正室は関東の武士の娘だったのですが、実朝は京都の貴族から正室を迎えました。また後鳥羽上皇に対して次のような和歌を送ったのです。

山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも

どのような世の中になろうと、朝廷に背くことは一切ありませんという意味です。これでは京都の勢力を次々と解体してきた武士たちが、実朝を不安に思うのも無理はありません。

 

源氏一族を完全に「解体」し、武士による武士のための政権を「創造」

実朝は満26才という若さで、朝廷から「右大臣」の官職が送られることになりました。

征夷大将軍は律令制度の正式な官職ではありませんでしたし、それまで源氏一族の中でここまで高い官職を得た人はいませんでした。この昇進を祝うため、実朝は鶴岡八幡宮へ参拝しますが、皮肉なことにその式典の最中、兄頼家の子である公暁によって暗殺されるのです。

しかし、公暁が個人的な恨みだけで実朝を暗殺したという説は、歴史家の中ではかなり疑われています。当然背後には公暁の後見人、つまり黒幕がいたはずです。黒幕は北条一族であるとか、またもや三浦一族であるという説さえあります。

誰が真犯人かはわかりませんが、関東の武士たちだれもが実朝の存在を不安に感じ、その抹殺に異を唱えなかった空気があったのは事実でしょう。ここに源氏一族は完全に解体されました。

その後は京都の貴族から見たら「一般人」とほとんど変わらない北条氏が幕府を運営することになります。北条一族は伊豆で勃興した豪族で、京都に対して何の憧れもありません。むしろ昔は長きにわたって朝廷や貴族から奴婢の如く扱われた、そのような苦々しい記憶しか残っていなかったはずです。

多くの御家人の中で北条氏が執権としての地位を固めたのは、頼朝の妻政子が北条氏出身であることは大きかったでしょう。けれどもそれだけでは他の武士たちの支持は集まりません。

 

鎌倉幕府が政権として安定したのは、京都に憧れを残す源氏一族を「解体」して、北条氏を中心とした武士の武士による武士のための政権を「創造」したことにあるのではないでしょうか。