平家滅亡がもたらした朝廷政治の「解体」と武家政権の「創造」


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出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/

昔から文学やドラマ、映画の題材として幾度となく取り上げられてきた源平合戦。時代をこえて好まれる背景には、そのドラマ性の高さがあるといえるでしょう。

しかし、源平合戦は単なる実権争いにとどまらず、日本史上の大きな転換点となったことを知っていますか?今回は源平合戦、そして平家滅亡を経て「解体」された旧体制と「創造」された新体制について見ていきましょう。
 

平清盛の立身出世と平家の栄華

平安時代末期、朝廷や貴族内部の権力闘争が武力衝突に発展するようになりました。1159年に京都で起きた平治の乱で活躍した平清盛は対立を深める後白河上皇と二条天皇のあいだをうまく渡り歩き、政界における地位を高めていきました。

そして、1167年には武士として初めて太政大臣に就任しました。太政大臣とは、名誉職ではあるものの、朝廷における発言力の高い、貴族としての最高位でした。当時66あった国の半分近くを平氏一門が支配し、日宋貿易で莫大な利益をあげます。さらには清盛の娘が後白河上皇の子である高倉天皇に嫁ぎ、のちの安徳天皇となる子供を産みます。

こうして「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉にも表されるように一時代を築いたのです。

 

栄華は続かず平家は滅亡へ

しかし、平家の栄華は長くは続きませんでした。清盛が勢力を伸ばすことに対して、後白河上皇をはじめとする院政勢力は不満を募らせていき、両者の関係は悪化の一途をたどります。1179年に清盛は「治承三年の政変」と呼ばれるクーデターを起こし、後白河上皇を幽閉、そして高倉天皇からまだ1歳を迎えたばかりの安徳天皇に譲位させ、実質的に平氏による独裁政権を実現しました。

そこで源氏が立ち上がるのです。かつて清盛に敗れた源義朝の子・頼朝が率いる源氏の勢力は徐々に広まり、清盛の権力に衰えがみられるようになります。このような状況のなか、清盛は熱病のために急逝します。平氏一門で大きな影響力を持った清盛がこの世を去ると、平氏はいよいよ源氏に追い詰められるようになりました。

最後の戦いとなったのが1185年の壇ノ浦の戦いです。この戦いに敗れた平氏の一族はつぎつぎと海へと身を投じました。かつて平家の栄華の象徴とされた清盛の孫・安徳天皇も例に漏れず、その祖母に当たり、清盛の正室でもある平時子に抱かれて壇ノ浦の急流に身を投じました。文字通り平家一族は滅亡したのです。清盛が亡くなってから、わずか4年後のことでした。

 

朝廷政権の「解体」と武家政権の「創造」

源平合戦を制した源頼朝はさらに奥州(現在の東北地方)を支配していた奥州藤原氏を討伐し、およそ10年にわたる戦乱の時代を終わらせます。これらの功績を認められた頼朝は征夷大将軍に任命されます。征夷大将軍とは、武士における最高地位であり、天皇の代理人としての機能も持ちます。こうして頼朝が1192年に開いたのが鎌倉幕府です。

鎌倉幕府がそれまでの時代と決定的に違ったのは武家が政権を握ったことです。平安時代までは天皇や天皇を中心とした皇族や貴族が政権を握る「朝廷政治」でした。政治の実権が幕府に移ってからも天皇は存続しましたし、朝廷の勢力がなくなったわけではありません。現に、鎌倉時代の「承久の乱」や、鎌倉幕府が倒れた際の「建武の新政」など朝廷が政権を取り戻そうとする動きもありました。しかし、これらはいずれも失敗に終わり、武家政権は明治維新により江戸幕府が倒されるまで続きました。

 

源平合戦のドラマ性の高さは、平氏滅亡により奈良時代から続いた朝廷政治を「解体」し、700年近く続くことになる武家政権を「創造」したところにあります。このことは日本史上では古代と中近世の転換点となっています。

源頼朝は平氏を滅亡に追い込み、古い体制の「解体」を決定的にしたことで、新しい時代を「創造」したと言えるでしょう。