アンシャン・レジームの「解体」とフランス国民のアイデンティティの「創造」


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2015年11月、フランス対イギリスの国際サッカー親善試合がロンドンでおこなわれました。試合前に、その数日前にパリで起こった痛ましいテロ事件の犠牲者への追悼として、フランス国歌が両チームのサポーターによって大合唱されました。

さて、現在ではフランス国民のアイデンティティを表しているフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」ですが、その起源はフランス革命の時代にさかのぼります。

旧体制の「解体」によって、フランス国民のアイデンティティが「創造」された過程を追いましょう。

 

アンシャン・レジームの時代

18世紀のヨーロッパの多くの国々で絶対君主制が終わりを迎えていたにもかかわらず、フランスでは依然として絶対君主制が続いていました。これに対しフランス国内では「アンシャン・レジーム(旧体制)」であるとして批判が高まっていました

こうした状況下、フランスでは巨額の財政赤字が問題となっていました。ルイ14世の時代以来、スペイン継承戦争に代表される戦費やヴェルサイユ宮殿をはじめとする建築費がかさんでいたのです。

そこで、 時の君主であったルイ16世は財政改革をおこない増税に乗り出しますがなかなかうまくいきません。なぜならば、当時のフランスでは第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(市民や農民)に大別されていたのですが、第一身分と第二身分は免税特権を持っていたのです。一方で、第三身分からはすでに多すぎるほどの徴税をおこなっていたため、第一身分と第二身分の特権を制限して徴税することを図りますが、反対にあって挫折します。

そして、第三身分への不平等感が高まり、1789年のバスティーユ牢獄襲撃に始まるフランス革命へと突入したのです。

 

革命の中で生まれたラ・マルセイエーズ

やがて、フランス革命は周辺国の反発を招き、混乱はフランス国外へも広がります。フランス王家との血縁的なつながりがある国々を中心に反革命の機運が高まったことにフランス革命政府は危機感を覚え、1792年にオーストリアに宣戦布告しついに対外戦争に発展します。オーストリアは、マリー・アントワネットの祖国でした。

さて、宣戦布告の知らせはフランス中に広がり、各地から部隊が出征します。そのなかで、フランス東部のストラスブールにおいて、出征する部隊を鼓舞するための軍歌が作られることとなります。この時に作られた歌には「ライン軍のための軍歌」というタイトルが付けられました。

その後、この歌は全国に広まります。パリの市民はマルセイユ兵が口ずさんでいるのを耳にして「ラ・マルセイエーズ(マルセイユの歌)」と名付けます。そして「ラ・マルセイエーズ」として全国でも定着したのです。

 

ラ・マルセイエーズはフランス国民のアイデンティティに

こうして一躍有名になった「ラ・マルセイエーズ」は革命の象徴として1795年に国歌に制定されます。ところが、ナポレオンが皇帝になると、「ラ・マルセイエーズ」の歌唱は禁止されます。「ラ・マルセイエーズ」の歌詞の「暴君を倒せ」という部分がナポレオンを指すとみなされたのです。その後、1870年に始まる第三共和政において国歌に復帰し、現在に至るまで公式に国歌として歌い継がれています。

年を経るごとに「ラ・マルセイエーズ」を歌うこと自体がフランス国民としてのアイデンティティを示すことになります。その過程を示す端的な例として、第一次世界大戦の勝利を祝って議会で歌われたことや、第二次世界大戦においてドイツによる占領下で歌唱禁止となったことでかえってフランスの自由の象徴となったことがあります。こうして、現在ではフランス国民の象徴としての価値を持つまでに至ったのです。

 

多くの移民を抱えるフランスですが、フランス国民としてのアイデンティティを築く上で、いまなお「ラ・マルセイエーズ」は大きな役割を果たしています。このように、古い体制の「解体」の過程で生まれたひとつの歌が、フランス国民のアイデンティティという新たな価値を「創造」したのです。