守護大名の「解体」と戦国大名の「創造」


sengoku

出典 http://sky.geocities.jp/

本題に入る前に、例え話をしてみましょう。

全国に支店を持つ大企業があるとします。けれども、一部の支店長たちは、本社で専務や常務を兼ねており、支店に顔を出すことは滅多にありません。

ひどい支店長は数年に一度という人もいるようです。すべての業務判断は支店長代理に任せ、支店長本人は本社で出世競争に明け暮れています。

さて、守護と戦国大名の違いを説明するため、架空の会社を紹介しました。この会社の社長が室町幕府の将軍、支店長が守護大名、支店長代理が「守護代」のちに戦国大名になる人々と考えてもらえば話がわかりやすくなるでしょう。

 

そもそも「大名」とはいつ成立したのでしょう?

大名は本来「有力者」という意味にすぎません。

一方守護という言葉が本格的に歴史の表舞台にでてくるのは、鎌倉幕府成立直前「全国に守護・地頭を置く」という出来事が有名です。

当時の守護は、地頭という小領主たちを、国ごとに統率していました。けれども幕府から与えられた実権は限られたものでした。

やがて鎌倉幕府が滅亡し、室町時代を迎えますが、戦乱はなかなか収束しませんでした。困ってしまった幕府は守護に軍事的な応援を求め、彼らの権限拡大を許可します。

一方で地頭は「国人」と呼ばれ実力を蓄えていましたが、徐々に守護の家臣のようになっていく者も現れるのです。室町幕府から正式に「守護職」として任命された人たちを「守護大名」と呼びます。

最初に説明したように、将軍が社長で、守護大名は支店長という関係にぴったりですね。

 

応仁の乱による守護大名「解体」の始まり

守護大名たちは幕府成立時の混乱に乗じて、室町幕府から莫大な領地をもらうことになりました。応仁の乱で西軍の総帥であった山名氏は、かつて「六分の一殿」と呼ばれ、11カ国もの領土を保有していました。

そして東軍を率いた細川氏は、近畿地方や四国に広大な領土を支配していたのです。

足利将軍家の後継争いが起こり、山名氏や細川氏だけではなく、多くの守護大名が双方に分かれ争いを始めた、それが応仁の乱です。なかには畠山氏のように、相続をめぐって兄弟が別の陣営に分かれる守護大名も現れました。

戦いは長期化し、京都の町は荒れ果てました。そして足利将軍の権威は失墜します。また多くの守護大名は領国の政治を家臣に放り投げていました。そんななか、肝心の領土は家臣たちに乗っ取られ、国人たちに反乱を起こされるのです。この現象を「下剋上」と呼びますが、考えてもみてください。

支店長が何年もの間留守だったのです。自分たちの領国は自分たちで運営する、そのような機運が高まるは自然の成り行きだったと言えるでしょう。

この現象は、実権を握った支店長が、本社から勝手に独立するようなものでしょう。また課長(国人)が支店長(守護代)を追い出すことすらありました。この守護代や国人こそ「戦国大名」といわれる存在になるのです。

 

戦国大名が「創造」した領民のための政治

戦国大名といえば、戦争ばかり繰り返しているイメージがあります。けれども、戦争をするには経済力が欠かせません。そのためには国を富ませていくことが必要でした。

有力な戦国大名たちは「分国法」を整備し、法治主義を取り入れます。産業面では治水や治山に力を入れ、今でいう国土強靭化計画を実行しました。信玄堤を作ったことで有名な武田信玄は元来が守護大名でしたが、国内を改革し、やがて戦国大名に名を連ねていきます。

中国地方を征服した毛利氏は、安芸の小さな国人にすぎませんでした。その成長過程で出雲の国に本拠を置く尼子氏の大軍に攻められたことがありました。

このとき、毛利元就は八千人ともいわれる領民も城内に避難させたそうです。民が離反せず、むしろ苦境下にある領主のもとに身を寄せるのは当時珍しいことでした。

 

京の町で政争に明け暮れていた守護大名の「解体」は、領国の経済を富ませ、領民を主体とした国造りをする戦国大名の「創造」につながったのです。