中世式城郭の「解体」と近世式城郭の「創造」


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古くなった家をリフォームするか、それとも解体して新たに建て直すか、多くの人が直面する難しい問題です。

筆者の祖父が住んでいた家は昭和初期に建てられました。現在はいとこが住んでおり、彼はリフォームを選択しました。

けれども田舎ということもあるのでしょうか、防犯意識が希薄なままリフォームを施しているようです。けれども東京の歌舞伎町で、内装をリフォームした昔ながらの民家に住むのは物騒でしょう。やはり古い建物を「解体」し、新しい家を「創造」していく必要性に迫られます。

戦国時代を考えてみましょう。武器は弓から鉄砲へ、そして大筒のようなものまで登場します。

戦法が変化していくと同時に、旧来のお城を「解体」し、新しいコンセプトに基づいた城郭を「創造」する必要があったのです。

 

守りやすいはずの山城を「解体」した理由とは?

山城で有名なのは、織田信長が居城を置いた岐阜城です。斎藤道三が築城した城としても知られています。

彼が岐阜城(当時の名前は稲葉山城)を築いたとき、何千、何万という人数を収容した籠城戦は想定されていませんでした。

せいぜい美濃国の内部で小競り合いが起こったとき、稲葉山城に籠城すれば安泰であるという計算のもとに築城をしたのでしょう。

筆者はこの城を実際に訪れたことがありますが、驚いたのは山頂部分の平坦な土地が極端に狭いことでした。これでは収容できる兵員数が限られてしまいます。

織田信長の時代になれば、各地域はそれぞれ統一が進み、有力な戦国大名が大規模な軍隊を編成することが可能になりました。

もはや山の中に籠るだけでは不利な状況に陥ったのです。中世式の山城が「解体」されたのは時代の必然でもありました。

 

役に立たなくなる平地の居館も「解体」の対象に

岐阜城のように有名な城以外にも、戦国時代には日本国中に大小含め万単位の砦や城があったと言われます。国人といわれる守護大名の傘下に入っていた小領主たちは、小さいながら自分たちの城を持っていました。

小さい山城や平地の居館など種類は様々です。平地に建造された居館の広さは、フットサルのフィールドを想像してください。その周囲を水堀で囲み、土砂で土塁を盛り、その上に塀や櫓を築くのが一般的でした。

先程も述べたように、武器といえば飛び道具は弓矢だけ、そして包囲人数も千人を超えるかどうかという程度であれば、この規模の城でも十分に守ることができました。

けれども数千、数万の大群に包囲されると、すり潰されるようにあっけなく落城の憂き目を見たのです。

 

大規模な石垣と堀に囲まれた、平地に築かれた大城郭の「創造」

城でもっとも重要なのは防御力です。大勢の人数を収容し、石垣を積み、幅が広い深い堀を穿ち、大量の鉄砲で中に籠れば、敵は容易に城へ近づくことはできなくなります。

つまり、旧来の山城では大勢の人数は収容できませんし、食料の補給なども難しくなります。

そこで山城が「解体」されたあとに、小高い丘の「平山城」や平地の「平城」が「創造」されました。日本三大名城という言葉がありますが、美しさを基準とするか、規模を基準とするか、それとも防御力の強さに重きを置くかで、選定されるお城は様々です。

常に名前が挙がるのが、江戸城、名古屋城、大阪城、姫路城、熊本城など、日本屈指の名城はほとんど平地に「創造」されたのです。

 

戦国武将の仕事はお城の「解体」と「創造」にあり

戦国武将といえば、鎧兜を身につけ馬にまたがり、槍を持って突進している姿が思い浮かびます。けれどもその姿は戦国武将の仕事のうち、ごく一部にすぎませんでした。

むしろ当時求められた人材といえば、鉄砲伝来以降の技術革新に対応した、新たな築城方法や石垣の積み方といった建築学や土木学の知識を身につけていた人たちだったのです。

戦国時代の名将は、多くが築城の名人でもありました。つまり時代の状況に合わせ、先祖伝来の城を「解体」し、新たな時代に適合させた城を「創造」する能力のある人たちだったのです。