鎌倉幕府と建武の新政を「解体」し、室町幕府を「創造」した足利尊氏


img_takauzi

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F

人間は生まれる時代と地位を選べません。殿様の家に生まれていたらとか、大富豪の家に生まれていたらという願望は多くの人にあると思います。

けれども実際にそのような家に生まれたばかりに、思いもよらない苦労の連続を強いられた人がいました。それも生きている間だけではありません。

戦前には天皇に背いたということで、「日本三大悪人」の汚名を被るまでになります(ちなみにこの三人とは、道鏡・平将門・足利尊氏です)。

今回は気の毒な名門の貴公子にして、室町幕府初代将軍である足利尊氏が行った「解体」と「創造」を取り上げてみたいと思います。

 

源氏の棟梁として生まれた足利尊氏

足利尊氏の本名は「源尊氏」です。

なぜ足利という名前を名乗っているかといえば、源という姓が多すぎて、自分の領地がある場所を「苗字」として名乗る方が分かりやすかったからです。

彼の領地とは現在の栃木県足利市で、尊氏の先祖はこの地を根拠地としていました。系図を遡れば、源頼朝と同じ源氏の一族で、頼朝の血統が途絶えたあと、足利氏は源氏の棟梁とみなされていました

けれども彼が生まれたとき、鎌倉幕府は執権である北条一族と、その執事である内管領という職を司る一族が絶対的な力を握っていたのです。

北条一族は幕府草創の頃から、自分たちの地位を脅かしかねない足利一族を警戒していました。尊氏は名門の御曹司とはいえ、いつ何時幕府から命を狙われるかもしれないという危うい運命のもと生を受けたのです

 

機能しなくなった鎌倉幕府を「解体」

執権を世襲した北条氏ですが、将軍の家来である「御家人」という立場に変わりはなく、建前上は他の御家人たちと同格でした。

けれども、不思議と優秀な執権を続々と輩出します。

承久の乱を平定した義時、御成敗式目を制定した泰時、「鉢の木」のエピソードで有名な時頼、蒙古襲来を防いだ時宗、その後の混乱を収拾した貞時など、政治実績としては十分に立派な成果を残します。

北条氏を中心とする鎌倉幕府がおかしくなったのは、蒙古襲来のあと、御家人へ十分な恩賞(土地)を与えることができなくなったことでした

蒙古を撃退したといっても、モンゴルの広大な土地を得たわけではありません。借金をしてまで蒙古襲来地の博多まで出陣した御家人もいたそうですから、恩賞をもらえないことには借金を返すことができないのです。

 

ここで鎌倉幕府の信用が大きく揺らぎます。また次々と名執権を輩出していた北条氏ですが、14代執権北条高時という人は毎日のように田楽や闘犬を開催し、御家人から完全に愛想をつかされていました。

そんな折、朝廷では後醍醐天皇を中心に鎌倉幕府を倒そうとする機運が盛り上がります。

西国では楠木正成らを中心に討幕の火の手が上がり、幕府の有力御家人である足利尊氏たちには、反幕勢力を討伐する命令が下るのです

ところが尊氏は幕府の反乱軍を鎮圧するどころか、京都にある幕府のCIAともいうべき六波羅探題を攻め滅ぼすのです。

これが契機となり、鎌倉幕府はあっさりと「解体」されてしまいました。同時に、源氏の棟梁としての足利尊氏の名声は否応なく高まるのです。

尊氏としては自分の野望からこの行動に出たのではなく、当時の状況から、幕府の言いなりになっていたのでは自分もともに滅んでしまうことを恐れたのだと思います

 

理想と現実の区別がつかなかった建武の新政を「解体」

隠岐の島へ追放されていた後醍醐天皇が京の都へ戻り、天皇や公家を中心とした古来の政治を復活させようとしました。これを「建武の新政」といいます。

特に延喜・天暦の治(10世紀半ば)という醍醐天皇と村上天皇による天皇親政を見習おうとしたのです。

けれども、400年も昔の政治をそのまま実現するのは不可能です。現実の世の中は武士が力を握っていましたし、社会には貨幣経済が浸透していました。

後醍醐天皇という人物は、歴代天皇の中でも異例なほどエネルギッシュな人物で、やる気は十分に備わっていたのですが、その方向性が完全に誤っていました。

鎌倉幕府を倒すため命を懸けて働いた武士たちはろくに恩賞をもらえず、後醍醐天皇はほとんど何もしていない公家や寺社を手厚く遇したのです。武士の不満が高まるとともに、源氏の棟梁、そして武士の棟梁である足利尊氏への期待がますます大きくなっていきました。

 

ちなみに尊氏はもともと高氏と名乗っていましたが、後醍醐天皇の名前「尊治」から一字をもらうという厚遇を受けていました。

天皇に背くことは尊氏にとってつらい決断だったでしょう。

しかし武士の不満を抑えきれなくなった尊氏は、ついに後醍醐天皇へ弓を引かざるを得ない状況に追い込まれたのです

その後紆余曲折はありましたが、最終的に足利尊氏が京都で新たな天皇を即位させ、征夷大将軍に任ぜられます。

結果的に時代錯誤そのものであった建武の新政は「解体」されることになりました。行動力の塊のような後醍醐天皇は、奈良の吉野山へ立て籠もり、京都奪還の狼煙を上げます。

けれども彼に忠実であった楠木正成などはすでに戦死しており、軍事力、世間の期待感など、いずれをとっても後醍醐天皇の願望がかなえられることはありませんでした。

 

あらたな幕府の「創造」と、ともに発表した「建武式目」という施政方針

源頼朝や徳川家康と異なり、足利尊氏が室町幕府を設立したのは、彼の立場、時代状況に引きずられた結果でした。つまり成り行きです。

けれども、尊氏はボロボロになった鎌倉幕府をいったん解体し、建武の新政という現実には実現不可能な理想を捨て、現実的かつ合理的な世の中を作っていくことを宣言します

その施政方針ともいうべきものが「建武式目」というものでした(建武年間に出されたので、建武という名前がついていますが、建武の新政とは関わりはありません)。

聖徳太子の17条の憲法と同じく17箇条によって構成され、北条泰時の御成敗式目(貞永式目)に倣ったものでした。

その文章を少しだけ引用してみましょう。

遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪ひ、近くは義時・泰時父子の行状をもつて、近代の師となす。ことに万人帰仰(きぎょう)の政道を施されば、四海安全の基たるべきか。

大昔は醍醐天皇や村上天皇を中心とした理想的な政治があった。

そして近年では北条義時と泰時親子による合理的な政権が運営された。この理想と現実の双方をバランス良く取り入れたら、誰もがこれに従い、必ず世の中は太平がもたらされるであろう。

尊氏の建武式目の最後の部分を私なりに意訳してみました。

ここで注目すべきは、自らが解体した建武の新政の理想と鎌倉幕府の合理性、この双方を否定していないというところです

むしろ、良いところは率先して見習い、一方で新しい世の中を「創造」していこうとする足利尊氏のバランス感覚を垣間見ることができます。

ちなみに足利尊氏は極悪人どころか、実に気前のいい人でした。多くの土地を自分に協力してくれた大名たちに分け与え、足利将軍の直轄地は微々たるものだったのです。

そして後醍醐天皇崩御の知らせを受けた尊氏は、帝の菩提を弔うため京都に天竜寺を建立しました。室町幕府を「創造」した足利尊氏は2度にわたって「謀反」を起こします。

けれどもそれはあくまでも時代の要請であって、彼自身は決して「悪い人」ではなかったのではないでしょうか。むしろ「解体」と「創造」を成し遂げた偉大な人物なのです。

引用サイト コトバンク 建武式目条々
https://kotobank.jp/word/建武式目条々-1614473