辛亥革命~中国4000年の王朝の歴史を「解体」したことによる新しい中国の「創造」


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出典 http://hb.sina.com.cn/zt/xhgm/

四大古代文明のひとつである黄河文明が栄えた中国は、世界でも古くから王朝の歴史が築かれた場所でもあります。

よく「中国4000年の歴史」と言われますが、それは実在が確認されている王朝が紀元前17世紀頃に始まったことを見ても一理ある言い方なのです。
このように長い歴史を持つ中国ですが、今から100年ほど前にそれまでの歴史を大転換させるほどの大革命を起こしたことを知っていますか?
そこで今回は、中国が4000年の歴史を「解体」し、新しい中国を「創造」した過程を追っていきます。

 

中国4000年の歴史

さて、中国4000年の歴史とは、古くは紀元前17世紀頃にまで遡る王朝の歴史と重なると言いました。

20世紀に入るまで、入れ替わり立ち替わりでさまざまな王朝がこの地を支配し、短いもので15年ほど、長いものでは400年近くの勢力を誇りました。

現在の中国にさまざまな少数民族が存在することからもうかがえるように、王朝ごとの支配民族も、現在の中国の大多数を占める漢民族のほか、モンゴル系、チベット系、ツングース系(満洲族)など多岐にわたります。

こうして、激動と安定を繰り返して築かれた中国ですが、その最後の王朝となった清の末期に歴史的大転換点が訪れます。

 

清の失墜と辛亥革命

時の王朝、清は1636年に少数民族であった満洲族が建国したもので、当時から人口の大多数は現在と同じ漢民族が占めていました。

しかし、前の王朝である明を滅亡に追いやった逆賊を討伐したという功績のもと異民族でありながら支配することは意外にもすんなりと受け入れられたといいます。

こうして順調に見えた清の支配ですが、18世紀末には産業革命を果たしたイギリスがアジアとの貿易を目論んで清に進出し、徐々に状況が変わってきます。

イギリスは清の茶や陶磁器、絹などを大量に輸入しましたが、一方の清はイギリスの製品になど目もくれず銀での支払いを要求しました。
輸入超過に陥り、銀の国外流出を抑えたいイギリスは植民地で栽培したアヘンを清に買わせることに活路を見出します。

その結果が1840年に始まるアヘン戦争ですが、近代兵器を持つイギリスには到底かなわず敗北を喫し、これを好機と見たロシアやフランス、ドイツまでもが清に進出し、半植民地化してしまったのです。

こうした状況に加え、近代・西洋化の頓挫、ついには日清戦争の敗北と清の威信は失墜し、漢民族の不満が募ります。そして、立ち上がったのが孫文です。孫文は清朝打倒と漢民族による共和制政府の樹立を目指し、若い知識人たちの支持を集めました。

何度かの武装蜂起を経て、1911年10月に武昌蜂起により革命を実行、翌年、孫文は中華民国の成立を宣言し、臨時大総統に就任します。

清朝最後の皇帝は退位に追い込まれ、権限を共和政府に委譲しました。こうして、4000年にわたる中国の王朝の歴史が「解体」されたのです。

 

新しい中国の創造に向けたいばらの道

辛亥革命の結果、アジアにおいてはじめての共和制国家たる中華民国が誕生しました。
孫文は皇帝退位を見届けて臨時大総統の座を清朝の実力者・袁世凱に譲りました。これは外国からの国家承認を受ける上で必要だったのでしょう。

ところが、袁世凱は皇帝を自称し、帝政を復活させようと画策するのです。この動きは、人民の支持を得られず、袁世凱も失意の中病死したことで終焉を迎えたものの、中国各地は軍閥が割拠し、時代は日中戦争、そして国共内戦へと突き進んでいきます。

国共内戦の結果、中華民国は台湾に撤退し現在に至ります。そのため本来の革命の目的のひとつだった漢民族による共和制統治については志半ばとなっていると言わざるを得ません。
それでも、アジアで初めての共和制国家を「創造」したことの歴史的意義はとても大きいのです。

辛亥革命が成功したか、失敗に終わったかは意見が分かれるところですが、それまでの4000年近く続いた君主制を「解体」し、新しい時代を「創造」したという点では評価されるべきだと言えます。

このように、長い伝統であってもそれを打ち破ることで新しい価値が見出せる可能性がある、ということは私たちも教訓にできるでしょう。