800年にわたるイスラム教とキリスト教の対抗がもたらしたもの~イスラム王朝の「解体」とスペイン文化の「創造」


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ヨーロッパ文化」と聞いた時にみなさんは何を想像しますか?エッフェル塔?歴史ある教会建築?それともフレンチやイタリアンなどの美味しい料理でしょうか?

ひとくちに「ヨーロッパ」と言ってもそれぞれに違う歴史を経て形成された国々なので文化も少しずつ異なるのですが、違いが特に際立つのはスペインです。

その違いを決定づけたカギはスペインが位置するイベリア半島が歩んできた歴史にあるのです。

そこで、今回は中世のイベリア半島を舞台に起きたイスラム教とキリスト教の戦いの歴史、そしてイスラム王朝の「解体」と現在のスペイン文化の「創造」に至る秘密を探っていきます。

 

イベリア半島がイスラム教国に支配されるまで

ローマ帝国が繁栄した時代、イベリア半島も属州「ヒスパニア」としてその支配下に置かれます。1世紀にはキリスト教がもたらされ、教会の要職につく人材も輩出されました。

ローマ帝国が衰退すると、ゲルマン系の西ゴート王国の支配下に移ります。イベリア半島は6世紀から100年ほどかけて統一され、引き続きキリスト教文化が繁栄します。
ところが、西ゴート王国の王政は安定せず、王の暗殺や内戦が相次ぎ王権が弱体化していました。

そんななか、現在の中東・北アフリカ地域に勢力を広げるイスラム国家・ウマイヤ朝の手がイベリア半島に伸びます。最初の襲撃は710年のことでした。

支配力の弱い西ゴート王国はたちまち苦境に陥り、翌年には国王が戦死し、軍も壊滅します。
そして、ウマイヤ朝は征服した土地の統治を始めます。ウマイヤ朝はイスラム教への改宗を強制せず、高額の税金を納めればキリスト教信仰を維持できました。

それでも、イベリア半島に住むキリスト教徒による反乱やヨーロッパのほかのキリスト教国からの侵攻が相次ぎました。これらの動きは「レコンキスタ(失地回復)」と呼ばれ、800年近くにわたりました。

 

レコンキスタ、そしてイスラム王朝の「解体」

イベリア半島を統一したウマイヤ朝を承継した後ウマイヤ朝の末期にはイベリア半島のイスラム勢力は分裂し、キリスト教勢力が北部から侵攻を進めていました。

1031年に後ウマイヤ朝が滅亡すると、多くのキリスト教国とイスラム教国が乱立し、1110年にはイスラム国家・ムラービト朝が南部を再統一するなど一進一退の状況が続きました。乱立していたキリスト教国同士でも対抗しているような状態だったのです。

こうした混沌とした状況に変化が訪れるのは13世紀にさしかかってからのことです。
ローマ教皇の呼びかけによりキリスト教連合軍(十字軍)が形成されたのです。十字軍はムラービト朝の後継者・ムワッヒド朝を弱体化させることに成功し、1251年には敵対的なイスラム勢力をイベリア半島から撤退させることができました。

残るはキリスト教最大勢力・カスティーリャ王国の支配下にあったナスル朝のみとなりました。ナスル朝はムワッヒド朝が弱体化した13世紀初頭にグラナダに都を置き、アルハンブラ宮殿を建築しました。

しかし、1479年にカスティーリャ王国を中心にキリスト教諸国が統合されて誕生したスペイン王国が、1492年ついにナスル朝を陥落させ、レコンキスタが終結します。

 

アラブの影響色濃いスペイン文化

800年近くにわたりイスラム教とキリスト教の勢力が拮抗したイベリア半島では、一方で両者の文化交流も盛んとなり、結果としてスペインに独特の文化をもたらすこととなりました。

例えば、スペイン語には4000を超えるアラビア語由来の言葉があるとされ、半島南部に行くにつれその数は増えるとも言われています。地名にもイスラム王朝やアラビア語由来のものが多く見られます。

また、フラメンコに使われる音楽も北アフリカの伝統音楽の影響を受けていると言われています。さらに、料理においても中東・北アフリカで多く用いられるサフランやひよこ豆を取り入れているのもイスラム文化の影響です。

 

中世の大部分をイスラム王朝の支配下で過ごしたイベリア半島。それは800年にわたるキリスト教勢力との戦いの歴史でもありますが、最終的にイスラム王朝による支配が「解体」されたときには、独特のスペイン文化が「創造」されることとなったのです。複雑な歴史を経たからこそ、魅力的な文化として現在では世界中の人々を惹きつけているのかもしれません。