日本人はかつて時間にルーズだった!?マドンナの遅刻を批判する現代日本に至るまで


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ポップスの女王こと、マドンナがまたやらかしました。遅刻です。過去の来日ライブの際にも一時間以上の遅刻で多くの反感を買い、その他メディア露出でも平気な顔をして遅刻してくる彼女。

多くの方が抗議を申し立てたのですが、それを「文句があるなら私のショーに来るな」と一蹴。日本人ファン達に悪びれる様子もなく、冷たく突き放す対応は賛否両論を招きました。

それでもファンがついてきてくれるというのは流石の一言ですが、中には愛想がつきてしまった方もいらっしゃるかもしれませんね。特に今回の遅刻では新しい歌姫で時間を厳守するレディ・ガガと比較され、そのルーズなスタンスは時代遅れと酷評されてしまいました。

 

電車が数分遅れれば大事になる現代日本ですから、マドンナのようなカリスマスタイルはもう通用しないのかもしれませんね。根強いファンがいることは間違いないのですが、難しい話です。

そんな時間について厳しい意見を突きつけた日本ですが、かつてはこれが逆で、外国人が呆れるほどに時間感覚がルーズであったという事実をご存知ですか?

そもそも遅刻云々以前の問題として、今のようなはっきりとした「時間」が定まったのは結構最近の話です。それ以前はなんとなくの感覚で人々は過ごし、鐘が鳴ったら「あ、そんな時間か」くらいに捉えていたと言われています。

そこで今回は、時間が定まったことによって「解体」された既存の生活と、「創造」された現代日本について考察していきたいと思います。

 

定時法後から培われた、日本人の時刻を厳守する性質

時間がはっきりとした存在として定義されたのは、1979年の西洋式時刻制度である「定時法」によるところが大きいです。

鉄道によってその存在は確かなものとなり、それは労働者への負荷と技術革新によって実現したのです。定時法以前は各所で不確かな時間が流れ、それは労働時間も同様でした。

職務によって異なった時間が流れ、それは都市職人型と農村型、官庁型と大きく三種類に分けられていたと言われています。労働という時間が重要な環境下においてもこのような扱いですから、当時の方たちの生活は相当大雑把だったのではと考えられます。外国の方が呆れてしまうのも仕方無いかもしれませんね。

そんな時間に大雑把な日本人が、時間を正確に守るようになっていった背景には、定時法によって時間が定められ、鉄道、ラジオの存在によってますます時間感覚が洗練され、国民の生活へと深く浸透していった、という流れがあるのです。

 

時間感覚と能率重視は切っても切り離せない

そして定時法以後ですが、鉄道による移動手段の強化以上に注目したいのが「能率」という言葉です。

「能率」という言葉はその過程で生まれました。具体的にはテーラーの科学的管理法によって人々に知れ渡り、行動理念の根底に置かれる重要なワードとして今日まで磨かれてきたことが由来です。

時間を知ったことによって人々はそれの短縮化を目指し、より多くの作業を詰め込もうと画策したのです。

この過程で、日本人の時間感覚は研ぎ澄まされ、現代に至りました。国際的にも厳格で有名な時間感覚は元から備わっていたわけではなく、このような先人たちの努力とシステムによって培われてきた賜物であったわけですね。

そう考えると、今回の「解体」は度重なる新体制の「創造」によってもたらされたということがわかります。

卵が先か、にわとりが先か、ではありませんが、深く考えるとややこしい話になりそうですね。何か新しい大きなものが創造されると、それに伴って周りも変化し、結果的に解体が必要とされる、といったところでしょうか。

そう考えると世間的ニーズの動きがなんとなく読めてくる気もします。何が創造されて、社会、もしくは自分にとって重要な柱となるかを考えることで必要な解体が見えてくるのではないでしょうか。

ですから、今回は適応するための解体について知れたと言えそうですね。

 

いかがでしたか?

今回は定時法によってもたらされた「解体」と「創造」について考察していきました。

生活の根幹を揺るがすような衝撃が走ると、その影響で多くの「解体」と「創造」が繰り返されていることがわかりましたね。

そこにはきっと見えにくいだけで試行錯誤も存在し、多義的な解体が多く行われていたのではないでしょうか。何かで行き詰っている場合は、自分にとって何が重要で、どうやったらそれに適応できるのかを考えることが重要と言えそうですね。

それに失敗したらまたリスタートのための解体を行い、再び理想へと向かっていけばいいのです。解体はあなたの可能性です。