傑作「風立ちぬ」における解体の大失敗


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出典 http://www.lawson.co.jp/campaign/static/ghibli_dvd/

「稀代のダークヒーロー。堀越二郎。」

不気味です。傑作です。

この作品の焦点は、堀越二郎という主人公のいびつさを描くことに絞られています。

まず映画というものの基本形をご紹介します。

欠点を抱えた主人公が、古い自己を解体し、新しい自己を再創造する。

たとえば、「心を閉ざしていた孤独な男が、ある苦しみの末に心を開き、誰か大切な人と生きてゆけるようになる」というように。

その姿をカメラに収める。これが映画の基本形です。

が、この映画の主人公・堀越二郎は、あきらかな欠点を抱えた自己を最後まで崩しません。

ヒロイン菜穂子は、彼の変化を望みます。そしてある賭けに出ます。賭けたのは自分の寿命です。賭けには負けます。そして二郎は、そんな賭けが行われたことにすら気づきません。

彼のダークヒーローぶりを、これからくわしくご説明します。

 

二郎の欠点。『物事の価値を、その外見の美醜でしか判断できない』

二郎の抱えた欠点。

それは、「物事の価値を、その外見の美醜でしか判断できない」です。

彼は、「美しいか、そうでないか」でしかものの価値をつかめません。飛行機が好きなのは、美しいから。鯖の味噌煮が好きなのは、その骨の曲線が美しいから。妹との待ち合わせをすっぽかして平気なのは、彼女が美しくないからなのです。

そして菜穂子の外見は美しかった。だから気に入った。彼は菜穂子をほめます。「キレイだよ」と。菜穂子が突っ立っていても「キレイだよ」。菜穂子が彼を想い、喜んでもらおうと心身共に尽くしたとしても、二郎から返ってくるのは「(外見が)キレイだよ」だけなのです。

その心の貧しさ。幼さ。醜いいじめっこたちが視界に入っても認識できなかった少年時代から、彼は成長していません。人間的な豊かさというものが、彼にはついぞ培われなかったのです。

そんな相手に惚れてしまった菜穂子の不幸です!

二郎からの求愛を得た菜穂子は、山上の療養所で結核を治そうとします。しかし二郎はお見舞いにも来ない。ようやく届いた手紙には、延々と飛行機の美しさが書き連ねられている。

ここでようやく菜穂子は彼の欠点に気づきました。自分が期待していたかたちで愛されていなかったことにも。彼女は戦闘機や鯖の骨と同列で彼に好かれていたのです。

しかし彼女には彼を嫌うことができなかった。苦しんだでしょう。ここで彼女は短い葛藤の末に、ある賭けに出ることに決めるのです。

それは、愛というものを自ら示し、彼に教えようとすることでした。

 

菜穂子の賭け。二郎に愛を教える。

菜穂子は山上の療養所を脱け出します。二郎と結婚し、ふたりで暮らすようになります。

菜穂子の花嫁姿の、美しさのすさまじさ。覚悟が漲っています。菜穂子はこれまで以上にみだしなみに気を使うようになります。

職場にこもる二郎と顔を合わせられるのは、「いってらっしゃい」の瞬間くらいです。彼女はその瞬間のために、自分の外見を完璧に整えています。

治療を受けないのだから、症状は当然のごとく進みます。

愛は犠牲です。彼女は寿命を削り、二郎のよろこぶ自分の美しさを捧げることにしたのです。

そうやって愛を示し、彼にも愛というものを知ってもらいたかったのです。

戦闘機や鯖の骨が、あなたのよろこびを願ってくれるか? あなたをよろこばせるために、なにがしかの犠牲を払ってくれるか? 彼の人生と魂に、自分という存在と愛情を焼きつけようとしたのです。

菜穂子はほほに紅を入れるようになります。症状の悪化です。顔にやつれが出て、美しくなくなるのを防いでいる。

やがて症状の進行を隠せる限界を悟ると、彼女は散歩と嘘をついて山の療養所に戻ります。愛する者の元を去り、死をひとりで迎える。その孤独と恐怖はいかばかりでしょう。

はたして二郎の反応は?

 

二郎の解体失敗

凡百の映画であれば、ここで二郎の解体シーンが入ります。

たとえば、二郎が飛行場を脱け出し、菜穂子を追いかける。列車のススで顔を汚した菜穂子を見つける。菜穂子は二郎に気づき、慌てて顔を整え美しくしようとする。しかし二郎はそんなことに構わず彼女を抱きしめる……。などというように。

しかし二郎の自己は、あまりに堅固でした。

菜穂子の死後、彼はケロっとして憧れの飛行機設計士とともにワインを飲みにゆきます。彼はついに欠点を抱えた自分を解体させることなく映画を終えてしまいました。菜穂子の賭けや想いには気づきすらしていません。

その生の実感のあまりに薄いこと。二郎が心ふるわせて喜ぶようなシーンは、ついぞ劇中には描かれませんでした。

このような主人公が「解体失敗」する系の作品は、実は一定数あります。有名なものでは、「日の名残り」や「タクシードライバー」など。

しかしここまで露悪的な作品は珍しい。宮崎監督の照れまじりの自己表現に、我々は、「やっぱすげえ人」とただただ茫然と脱帽するのみなのです。