植民地支配の解体と近代インドネシアの創造を行った英雄スカルノ
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19世紀から20世紀に帝国主義と呼ばれた植民地政策がありました。
欧米を中心に資本主義が発達した国は、自国の産業を支える資源と労働力の供給元として、または産み出した商品の市場として、南米やアフリカ、アジア諸国を支配下にしていったのです。
植民地側では独立を目指した運動が巻き起こり、中心人物たちが英雄として語り継がれる様になりました。
スカルノもその1人。
オランダからの独立運動に取り組み、植民地支配の解体と近代インドネシアの創造に貢献した「建国の父」として愛されている人物です。
長年オランダの植民地だったインドネシアと独立運動
20世紀初頭、インドネシアはオランダの植民地でした。
その支配は17世紀から続いており、特に農民に対しては過酷と言っていいほどの支配が行われていたといいます。
1900年代に入り、長年のオランダ支配に対して独立運動が行われるようになりました。
しかし、小さな島々が集まってできているインドネシアは民族や文化がそれぞれ違い、独立運動の統一性を保つことが難しかったため、なかなか効果を上げることができずにいました。
そのような状況の中でインドネシア国民党の党首として、独立運動の中心となった人物がスカルノだったのです。
幅広い民族主義を信条としたスカルノ
スカルノはジャワ島の貧しい学校教師の子として生を受けました。
15歳のときに中学校進学のために、イスラム教の指導者であるチョクロアミノトの家に寄宿します。
チョクロアミノトは後のイスラム同盟の当主になる人物で、この頃から多くの人々と交流していました。
スカルノは学生時代にチョクロアミノトの家に出入りする上流階級や民族主義者、共産主義者、イスラム教徒といったさまざまな人物と出会う機会を得て、大きな影響を受けたようです。
その経験は、共通の敵や目的を持っているならば、イスラム教徒や共産主義者であっても団結できるという、幅の広い民族主義思想としてスカルノの中で結実しました。
この思想はスカルノの政治的な指針として、死ぬまで貫かれています。
1927年に民族主義者によって結成されたインドネシア国民党に参加したスカルノは、反植民地運動のためにオランダ領東インド政府によって反逆罪とみなされ逮捕されます。
オランダの牢獄に2年間幽閉され、その後1942年までスマトラなどへ亡命しました。
しかし、裁判の席で自身の政治的信条を訴えるなど、牢獄・亡命の期間にも独立運動を止めず、かえって名声を集めています。
日本のインドネシア侵攻と、スカルノの活躍
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1942年に第2次世界大戦で日本はインドネシアに侵攻しました。
反植民地運動家で影響力のあるスカルノに注目した日本軍は、占領戦略を広め調整する人材として協力関係を結びます。
スカルノもまた日本軍を利用してオランダ勢力を国外に追いやり、その後の独立を認めさせようと考えたようです。
1945年に世界大戦が終結した後、スカルノは8月17日にインドネシア共和国の独立を宣言し、初代大統領の任に就きます。
当初オランダはインドネシアの独立を許さず、1947年には武力衝突もありました。しかし国際連合の調停が入り、1949年に正式に独立が認められます。
改めて初代大統領に選出されたスカルノは、民族主義・イスラム教・共産主義のバランスをコントロールしながら、自身は独裁権力をもった大統領として君臨します。
ナサコム体制と言われたこの政治は、実際は独裁政権でしたが、前述した学生時代よりスカルノが思い描いていた「民族・宗教・主義の枠を越えたインドネシア」という政治思想と合致していたともいえるでしょう。
スカルノは1965年にクーデターが起こるまで、国外的には第三世界の有力な指導者として、国内では独裁者の一面を持つ大統領として活躍し続けました。
スカルノは浪費家の上にスキャンダルも多く、終身大統領となって独裁政治を行ったため、最終的に失脚し軟禁生活の中で病死しました。
しかしオランダの植民地支配を解体し、近代インドネシアを創造した功績は今もなお尊敬され続けていることもまた事実です。
スカルノの名前は「建国の父」として、これからもずっとインドネシアの歴史に残ることでしょう。
【参考文献・サイト】
・後藤乾一、山崎功(2001)『スカルノ インドネシア「建国の父」と日本』吉川弘文館.
・朝日新聞社編(1995)『二十世紀の千人第一巻 世紀の巨人・虚人』朝日新聞社.
・世界史の窓「スカルノ」http://www.y-history.net/