南宋の滅亡は漢民族国家の解体と新たな中国の創造を意味した!



出典 https://commons.wikimedia.org/

南宋は12世紀から13世紀に、中国南部に成立した漢民族の王朝です。

10世紀に中国全土を統一した宋王朝が、女真族が興した金によって南へ追いやられて生まれました。便宜上それまでの宋王朝を北宋、南下し臨安に遷都したあとを南宋と呼びます。

この南宋の滅亡は、漢民族王朝の解体だけではなく、異民族による征服国家が初めて中国全土の統一した歴史的な大事件でもありました。

そして南宋の滅亡には、今でこそ日本ではあまり知られていませんが、中国では歴史上もっとも愛国者として名高い2人の英雄がかかわっており、涙なくしては語れない悲劇的な結末となっています。

今回は、そんな南宋の滅亡に至る道を簡単にご紹介します。

 

岳飛:和平論の犠牲になった救国の英雄

南宋の歴史を語る上で、真っ先に名が挙がる人物が2人います。

それは岳飛と文天祥です。

この2人は中国では愛国の英雄として語り継がれています。特に岳飛は中国史上もっとも人気がある人物と言っても間違いないでしょう。

岳飛は南宋が建国した初期の頃の武将で、若くから兵法に通じ弓術が巧みで、義勇兵のなかから頭角を現した才能にあふれた人物でした。

忠義心に厚い人物で、身体には「尽忠報国(忠義を尽くして国に報いる)」と入れ墨を彫っていたという言い伝えが残されています。

岳飛は宋を南に追いやった女真族国家、金に徹底抗戦を唱えた主戦派で、しかも民衆からも絶大な人気を得ていました。

ところが、和平派の中心人物である秦檜(しんかい)によって、無実の罪を着せられ処刑されてしまったのです。

 

岳飛と秦檜の関係に見る、南宋弱体化の原因

この事件は、南宋の滅亡に直接つながっているわけではありませんが、重大なポイントでもあります。

宋王朝は科挙という役人選抜用の試験が発達していた国で、軍人よりも文官のほうが力を持っていました。

さらに金に追いやられた南宋の軍はまだ正式に整備されておらず、私兵集団の集まりで統一性がなかったのです。

そのため、和平交渉といった外交政策によって金に対応しようとする傾向が強く、軍事的には岳飛や韓世忠といった一部の名将が率いた軍閥以外は消極的でした。

その結果が岳飛の謀殺です。

戦争が最善の道ではありません。しかし、ときには戦わないと守れないことがあります。

強い国は戦争と外交を巧みに操り、戦うべきときに戦い、外交するべきときには外交します。

南宋はそのバランスが悪かったといえるでしょう。建国した当初から戦争を避け、そのためには味方であっても権謀術数によって追い落とす風潮があったのです。

 

文天祥:南宋滅亡に殉じた忠臣の鑑

金との和平とは、基本的に南宋が頭を下げて臣従することでした。臣下の礼を取り、貢物をささげて顔色をうかがう、不平等な関係です。

それでも平和を得た南宋は経済的には金を圧倒するほど豊かで、大量の貢物をしてもゆらぎませんでした。

問題だったのは王宮内で、岳飛のときと同じく派閥争いが絶えず行われ、越権行為を行う宰相が続き、謀略が入り乱れた不安定な政情でした。

そのつけが回ってきたのが、13世紀後半に金を滅ぼして南下してきた元との戦争です。

1257年にフビライによる侵攻作戦が始まると、南宋はほぼ連戦連敗を続けました。

1276年には首都臨安は無抵抗で開城し、あっという間に滅亡してしまいます。

このときに名を残したのが、科挙をトップで合格したエリート文官の文天祥でした。

前述したように乱れきった南宋の要人は、国を見捨てて次々と逃亡していました。そのような中、義勇軍を率いて臨安にたどり着いた文天祥は若くして宰相格の地位に就けられ、講和の使者として元軍に赴きます。

気骨ある人物として知られていた文天祥は堂々とした態度で交渉を行いましたが、それがかえって敵将に気に入られてしまい、拘禁されてしまうのです。

本来、文天祥の知識と能力があれば、元に降ったほうが未来は開けていたでしょう。しかし、忠誠心に厚い文天祥はそれを良しとせず、北に護送される途中で脱走し、元と戦い続けます。

ですが、いかに優秀とはいえもともと武将ではない文天祥は、あえなく囚われ、大都(現・北京)に護送されます。

ここでもフビライに気に入られた文天祥は、何度も元に仕えるように求められますが、最後まで拒絶し、3年後に惜しまれつつ処刑されました。

その清廉潔白な生きざまによって、文天祥は忠臣として名を残したのです。

他にも張世傑・陸秀夫といった忠義の士は、最後まで抵抗し、南宋の滅亡に殉じました。

殉死者の数は他の中国王朝よりも多かったとも言われますが、同時に滅亡前に逃げ出す者もかなりいたようです。

 

漢民族王朝の解体と征服国家による新しい中国の創造


南宋の滅亡により、元は中国全土をほぼ手中に収めます。

これは、漢民族以外の征服王朝が初めて中国を統一した瞬間でした。

それまでも異民族が中国王朝を興した事はあります。前述した金も女真族の国家です。

しかし、元より前は広くても中国の半分を支配した程度に留まり、必ず漢民族の国が並び立っていたのです。

次の漢民族王朝である明が建国するまで約100年間、元によって漢民族の文化は徹底的に抑圧されました。

モンゴル族による役職の独占、民族別の身分階級制度、公的言語としてモンゴル語の強要などが行われ、特に儒教は念入りに排斥されています。

またアジア全域に国土を持つ元によって、唐王朝末期以降長らく絶えていた西洋諸国との交易が復活し、東西が混ざった新しい文化が芽生えました。

 
このように南宋の滅亡は、1つの王朝が滅んだというだけでなく、初めて中国全土が漢民族以外の民族によって支配され、今までと違う新しい中国文化が創造された、中国史上の大きな事件だったのです。

それ故に南宋の滅亡は漢民族にとって深い感慨を及ぼすものなのでしょう。

この時代の悲劇の英雄である岳飛と文天祥が、他の時代の人物よりも知名度が高いことからも伺えます。

南宋から元への移行は、中国史において特別な解体と創造の歴史なのです。

 
 
【参考文献・サイト】
・布目潮ふう、山田信夫編(1995)『新訂 東アジア史入門』法律文化社.
・島崎晋(2000)『目からウロコの東洋史』PHPエディターズ・グループ.
・冨谷至(2006)『教科書では読めない中国史 中国がよく分かる50の話』小学館.
・井沢元彦(2004)『井沢元彦の英雄の世界史』廣済堂出版.
・世界史の窓「南宋」http://www.y-history.net/