植民地だったラテンアメリカを「解体」し、独立国を「創造」した英雄
18世紀に起こったアメリカやフランスの革命の影響によって、19世紀始めには南米の植民地に独立運動が巻き起こりました。
多くの人々が独立を勝ち取るために戦うなか、ラテンアメリカに1人の英雄が現れます。
「ラテンアメリカ解放の父」「解放者」と呼ばれたシモン・ボリバルです。
彼は出身地であるベネズエラの他にも、コロンビア、エクアドル、ボリビア、ペルーと多くの国の独立に関わってきました。
それはまさにスペインを代表とする帝国主義の「解体」と、植民地の独立の「創造」だったのです。
ラテンアメリカを苦しめた長い植民地時代
ラテンアメリカは非常に長い間、スペインやポルトガルの植民地でした。
始まりは1492年にコロンブスが新大陸を発見したことです。新しい天地と海路の発見によってヨーロッパは大航海時代に突入し、発見した国をつぎつぎと植民地化していきます。
当時、航行技術が高かったポルトガルとスペインは、イギリスやフランスに先駆けてラテンアメリカのほとんどを支配し、それはなんと約300年にも及びました。
その間にラテンアメリカが受けた影響は計り知れないものでした。
ヨーロッパから持ち込まれた伝染病がはびこったことや、厳しい統治による人口減少。
同じく植民地化したアフリカから、労働力として移住してくる人々との摩擦。
かけられる過剰な強制労働と課税。
当然、住民の不満はたまり、反乱や暴動が起こります。
独立を考えたのは支配層の白人だった
1780年に初の大規模反乱がペルーで起こりました。(トゥパク=アマルの反乱)
支配していた白人層のなかでも、特に現地で生まれ育った「クリオーリョ」は対処に悩み始めます。クリオーリョは中間管理職であり、本国と植民地の間で現地を治める限界を感じていたのです。
そこへアメリカ独立戦争やフランス革命の情報が流れてきます。
クリオーリョにとって、その情報は天の啓示でした。特にアメリカ独立戦争については立場が近いため、理解できる面が多かったことでしょう。
クリオーリョは植民地を独立させて、本国から離れて支配することを考え始めたのです。
植民地の民にしてみれば支配される点は同じですが、少なくともクリオーリョは同じ土地で生まれ育った同国人でした。
そして、将来の「解放者」シモン・ボリバルもまた、ベネズエラのクリオーリョの家に生まれました。
ある意味、彼が独立戦争に身を投じるのは必然だったのです。
植民地を解体し、独立国を創造したシモン・ボリバル
ヨーロッパで教育を受けたボリバルは、祖国ベネズエラの独立を願うようになりました。
1811年に帰国したボリバルは、ベネズエラが独立宣言したと同時に国軍に入り、スペインと戦うことを選びます。
その後、独立運動のために各地を転戦したボリバルは、1819年に大コロンビア共和国の独立とともに大統領になりましたが、そこで満足せずにラテンアメリカ全体の独立を目指してさらに戦い続けました。
1822年にエクアドル、1824年にペルー、1825年にはボリビアを独立に導きます。ちなみにボリビアの名は独立に貢献したボリバルに因んでつけられたそうです。
さらに翌年には南米で独立した各国に働きかけ、パナマ会議を招集しました。
今後の対ヨーロッパ戦線を見越した相互協力が目的です。この会議は具体的な結果を出せずに終わりましたが、後の南北アメリカ諸国会議である「パン=アメリカ会議」につながっていきます。
1830年、ボリバルはチフスを患って亡くなります。
共和主義者でありながら強い指導力をもった独裁政治を志したため、自由と解放を望んでいた南米の時勢にあわず、ボリバルの政治思想を受け継ぐ者はいませんでした。
さらに独立戦争のために私財をなげうっていたボリバル家は、彼の死後財産がほとんど無く、没落したといいます。
このようにラテンアメリカ独立のために心身をささげたボリバルは、ほとんど報われることなく天に召されました。
しかし、その名は今も植民地解放に尽力した英雄の1人として語り継がれています。
彼は確かに植民地としてのラテンアメリカを「解体」し、いくつもの独立国家を「創造」したのです。
その後も南米諸国は独立を保ち続けました。ボリバルが残した最高の財産は「独立」だったといえるでしょう。
【参考文献/サイト】
・武光誠(2002)『世界地図から歴史を読む方法2』河出書房新社.
・世界史の窓「シモン=ボリバル」 http://www.y-history.net/