三国志の時代に決まった?中国という国の「解体」と「創造」
日本でもっとも人気のある中国の歴史小説といえば、やはり『三国志』でしょう。
もともと古くから日本にも伝わっていましたが、現在では小説としてだけでなくドラマや映画、コミック、ゲームの題材にもなっています。
細かい内容はともかく「三国志」というタイトルは、知らない人の方が少ないのではないでしょうか。
そんな三国志の時代は、実は中国史のなかでも特別な転換期でした。三国の争いは漢民族の国だった中国を「解体」し、新たな国の形を「創造」した時期だったのです。
三国志の背景は後漢王朝の滅亡だった
三国志は、タイトル通り「魏」「呉」「蜀」という3つの国の興亡を描いた小説ですが、実は3国が並び立った期間は短いものでした。
物語の半分以上は「後漢」が滅びゆく時期を題材にしています。
「後漢」とは始皇帝が興した「秦」の後に建国された「漢」を継いだ国で、皇帝は漢の血族でした。
そのため厳密には「漢(前漢)」と「後漢」で分けて考えられますが、大きくは同じ王朝として扱われます。合わせて約400年もの間続いた王朝で、漢民族の原点ともいえます。
三国志はこの後漢の政治が乱れ、農民の大反乱である「黄巾の乱」が起こることで、国中から英雄たちが立ち上がり、競い合う姿を描きます。「後漢」のなかで英傑たちが争っているのであり、曹丕、劉備、孫権がそれぞれ皇帝の地位につくまでは、皆後漢王朝の臣下の立場にありました。
つまり、三国志は最終的には3国の興亡史になるのですが、その大半は滅びゆく国のなかで臣下同士が野望をぶつけ合う物語なのです。
三国時代を境に解体された中国国境の壁
三国志の物語を支える魏呉蜀の3国は、結局中国の統一はできませんでした。
まず魏によって蜀が滅ぼされた後、その魏国内で皇帝の位を譲り渡され、西晋という国が新たに建国されます。さらに西晋が呉を滅ぼして中国統一を果たすのです。
この魏呉蜀の争いと西晋の中国統一の裏で、重大な変化が訪れていたことは小説にはあまりはっきり書かれていません。
この三国時代は前述した通り、後漢王朝の衰えに端を発しています。このとき農民の反乱や国内での争いが続き、中国全体の力が落ちていました。しかし、逆に中国の外の民族は、力を蓄えつつあったのです。
もともと中国は古来から北方騎馬民族に悩まされていました。秦の始皇帝が建築した万里の長城は騎馬民族を侵入させないためだったといわれています。
三国時代でも中央から北側を支配していた魏は、特に異民族の影響を無視できませんでした。
魏は北方騎馬民族である匈奴や鮮卑とも争い、その力を利用しようとして自軍に取り組んでいきます。魏の後を継いだ西晋もこの方針を受け継ぎ、異民族を軍事力として利用しました。
この軍事的な政策によって、北方騎馬民族はいつのまにか中国内部へのルートを手にしていたのです。
中国という国のあり方が決まったのは三国時代からだった!
後漢から三国時代を通した国力の低下と、北方騎馬民族の侵入は、漢民族国家だった中国をひそかに「解体」していきました。
西晋は西暦316年に滅亡しますが、その原因は北方騎馬民族の1つである匈奴が中心となった永嘉の乱です。
この後、中国は西晋の後を継いだ東晋と、漢民族と北方異民族が入り乱れて国を乱立した五胡十六国の時代へと移っていきました。
さらに時代を下ると、南北朝時代や元、遼、金、清といった漢以外の民族が統治する王朝が幾度も現れるようになったのです。
このように中国は三国時代を境にして、漢民族だけの国ではなくなっていったのです。
混乱と衰退の時代だった三国志のときに、漢民族を中心とした国境が「解体」されたことによって、別民族との交流が深くなり、後の多民族的で複雑な中国が「創造」されたといえるでしょう。
日本では中国の歴史というと、三国志以前の時代がとても人気があります。
それは小説が普及しているだけでなく、それまでの古代中国の歴史が漢民族を中心とした国内の物語であり、それが単一民族国家である日本と似ているので共感しやすいのかもしれません。
【参考文献/サイト】
・武光誠(2002)『世界地図から歴史を読む方法2』河出書房新社.
・布目潮ふう、山田信夫編(1995)『新訂 東アジア史入門』法律文化社.