ロシア革命による帝国の解体と世界初の社会主義国家の創造



20世紀の国際社会は「資本主義」と「社会主義」という、2つの思想がぶつかりあった時代でした。

その社会主義が、初めて国家制度に取り入れられるきっかけとなったのがロシア革命です。

フランス革命から約130年たってから行われたこの革命は、帝政を解体し、初の社会主義国家を生み出しました。それは後の東西冷戦につながっていきます。

ロシア革命と社会主義国家の建国は、20世紀の歴史において無視できない創造だったのです。

 

ロシア革命の引き金になった血の日曜日事件

1905年1月、日露戦争も佳境に入るなか、ロシア帝国の首都ペテルブルグで非常に血なまぐさい事件が起きました。それが「血の日曜日事件」です。

その日、当時のロシア皇帝ニコライ2世に対して、労働者の権利や日露戦争の停止、憲法の制定を求めて大規模なデモが行われました。約10万人もの民衆が集まりましたが、軍と衝突し発砲を受け、2000名以上の死傷者が出ています。

まさに血の雨に染まった事件だったのです。

この弾圧によってロシアの大衆は皇帝への信頼を完全に失い、それまでの不満を訴える先を見失いました。そのため、ロシア皇帝と民衆の間に大きな溝ができ、帝政は急速に傾いていきます。

 

世界大戦への参戦がロシア革命への道となった

1905年9月にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終わります。ですが、ロシア国内はとても安定しているとは言えない状況でした。

民の信望を失った皇帝は、1906年4月に憲法の制定を行って立憲君主制に移行します。しかし、実質は専制君主制が続き、民主化は行われていませんでした。形だけだったのです。

その不安定な状態のまま、1914年にロシアは第一次世界大戦に参戦してしまいます。結果は散々で国土を占領されたばかりか、国内は食料や資源、物品が不足し、物価高騰をまねきました。

この国内情勢の悪化が、革命の最後の引き金となります。

1917年3月に首都ペトログラード(大戦参戦後に改名したペテルブルグ)で起きたデモをきっかけに、軍隊すらも革命側に協力して運動は高まっていきました。

同年3月15日、ついにニコライ2世は退位し、事実上帝政は倒れます。そして議会制の臨時政府が設立されましたが、その内容はブルジョワ政権で、しかも戦争の継続を意図していました。

当然、労働者を中心とする一般大衆は反発し、独自にソヴィエトを形成します。

ソヴィエトとは「会議・評議会」を意味し、労働者階級を中心とした革命組織を表す名称となっていました。後年、ソヴィエト連邦という国号にも利用されています。

この時点でロシア国内は、臨時政府とソヴィエトという権力の二重構造になっていました。

 

2回の革命を経て社会主義国家の創造へ


このままだったら臨時政権がそのまま西洋化を進め、世界初の社会主義国家にはならなかったでしょう。

同年11月、スイスから帰国したレーニンが中心となって、臨時政府を打倒します。

この武装蜂起によって労働者階級の集まりであるソヴィエトは、資本主義のブルジョワ政権である臨時政府から権力をもぎ取りました。そして、レーニンの指導のもとで社会主義の実現にむけて動き出します。

翌年1918年には首都をモスクワに移し、新しい国が建国されました。

 
このように、1917年の3月と11月に行われた2つの革命によって、ロシアは帝政が解体され、世界初の社会主義を目指す国家「ソビエト連邦」が創造されました。

歴史としてみれば、1900年代の社会主義および共産主義の実験は失敗といわれ、どこの国も資本主義原理の導入を余儀なくされています。

しかし資本主義のアンチテーゼとして、社会主義は多くの教訓を与えてきたのも事実です。

社会主義の考え方が社会保障制度や労働条件・環境の改革、協同組合組織などに与えた影響はけっして少なくありません。

現にヨーロッパ諸国には社会主義政党が与党となる場合もありますし、インドのように社会主義を明記している国は今も多いでしょう。

もしかすると、社会主義の実験はこれからも続き、いつか新しい国家がまた創造されるのかもしれませんね。

 
【参考文献/サイト】
・田中英道(2013)『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社.
・世界史の窓「二月革命/三月革命(ロシア)」http://www.y-history.net/