江戸幕府の解体に「解体新書」が深く関与?多くの創造を生み出した蘭学


「解体新書」とは

img_kaitaisinnsyo01出典:https://kotobank.jp/word

「解体新書」という言葉は、中学や高校の歴史の授業で誰もが一度は聞いたことがある言葉でしょう。

「解体新書」はともに医師であった杉田玄白、前野良沢らが江戸時代中期の1774年に完成させた、西洋の本格解剖学書としては初めての翻訳書でした。この「解体新書」は後の日本の医学の発展に大きく寄与しただけでなく、日本の近代化や西洋化にも様々な影響を及ぼしました。

その影響の大きさから現在でも「解体新書」という言葉が、何かを解説するような書籍のタイトルに使われることがあります。

 

「解体新書」完成までの道のり

img_Ontleedkundige Tafelen02出典:http://www.ndl.go.jp

解体新書の元となっているのは、ドイツ人医師が書いた解剖学書のオランダ語訳版「ターヘル・アナトミア」です。この本は解体新書の翻訳にも携わった友人である中川淳庵が輸入のきっかけとなり日本に複数輸入されたと言われています。

杉田玄白、前野良沢らはある日、刑の執行を受けた罪人の解剖の現場に立会いその時にこの書を持ち込み参照しました。解体新書以前の日本の医学界の常識は「五臓六腑」、つまり、五臓:肝・心・脾・肺・腎 および、六腑:胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦、が人間の体内を構成する全ての臓器であるとする東洋医学の考え方を長年採用していました。

しかし、実際に解剖に立ち会った彼らは、書に記載されていた西洋医学の進歩に感嘆し本書を日本語訳にすることを決意します。

当時は、オランダ語の辞書は存在しません。前野良沢はオランダ語の知識が多少ありましたが、杉田玄白は全くオランダ語の知識がないところからのスタートです。彼らは解剖学を解体する以前にオランダ語を解体する必要があったのです。

翻訳作業は複数人の協力によって4年のがかりで完成しました。実質的には初めての翻訳という事情もあって実際に出来上がった解体新書は現在の翻訳本とは異なる性質をもつ(つまり完訳ではない)ものに仕上がったそうです。

「解体」つまり、「何かをゼロベースに戻す」という行為は常に一定のリスクを伴います。予想もしない出来事や、時に大きな反発を受けることがあります。

鎖国時代に業界の常識を海外から持ち込んだ知見で解体するというような反発必至な書籍を出版するという状況で、如何に正確さを担保するのかという点で、正確性を求める前野良沢と、正確性を書いても出版までのスピードを重視する杉田玄白の間で衝突があった事が、解体新書の制作過程を記した書などに残されていますが、完成品の性質を鑑みると杉田の方針が強く反映されているようです。

後に、この解体新書は誤訳が多かったことから1826年に大槻玄沢が翻訳し直し、「重訂解体新書」が刊行されています。

 

「解体新書」が解体し、創造したもの

197-001出典:http://apexoutboundresidentebenstein.blogspot.jp

この「解体新書」は当然に日本の医学レベルを大きく進歩させるきっかけになりました。「神経」などの医学用語はこの解体新書の翻訳を通じて日本で使われるようになった言葉です。

そして、解体新書の刊行をきっかけに日本でオランダ語の理解が進むようになり、多くのオランダ語で書かれた西洋の書物が日本に広まるきっかけになりました。

蘭学者で有名な緒方洪庵は解体新書刊行の約35年後の1810年に現在の岡山県に生まれ、16歳の時に大阪にある蘭学塾に入門しオランダ語と医学を学習しました。28歳になった緒方洪庵は大阪で病院を開業し、同時期に蘭学塾である「適塾」を開きました。その塾の門下生には慶應義塾大学創始者である福沢諭吉や、日本陸軍の父ともいわれる大村益次郎など、明治維新の立役者や日本の近代化に大きな影響を及ぼした重要な人物がたくさん在籍していました。

江戸中期においてオランダは世界で影響力を強く持っていて、日本はオランダを通じて世界を見ていたのです。解体新書がもたらした、蘭学で書かれた西洋の書籍の理解の土壌の形成、そして、そこからオランダ語を習得した者達が海外に出て世界に触れたことは明治維新を加速させたといっても過言ではありません。

オランダは明治維新の時期には影響力が低下していましたが、明治以降な重要な人物達が英語を習得する際に、言語として共通点が少なからずあるオランダ語のベースが役に立ったことは否定しようがありません。アジアの国々が次々と列強に征服、植民地化されるなかで、当時の日本が早期に対策しそれを免れることができたのは、オランダ語を知っていたことで世界情勢を知り、早期に近代化を行わないと危機が訪れることを予見できたからです。

このように杉田玄白と前野良沢が果敢に挑戦した解体新書による当時の医学の常識の解体は、江戸幕府を解体することに繋がり、明治維新と近代化という創造に繋がることになりました。

「現在、目の前に存在することを壊すことを恐れない解体の精神」をプレッシャーに負けず持つことができれば、新たな創造がもたらす豊かさを享受できることがわかります。