激動から安定の時代に導いた家康が実は解体され荒廃した京都の創造を支援した!?


三英傑の一人。徳川家康が勝ち抜いた激動の時代

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織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康と移り変わっていった激動の時代。日本史そして、戦国時代のファンでなくてもこの時代の事を見聞きした事がある人がお大勢いる程に有名でエピソードが多いのがこの時代です。少しだけ、この激動の時代の移り変わりを紹介します。

1582年:本能寺の変で織田信長が自らの家臣である明智光秀の謀反によって命を落とします。天下統一の夢は果たせずこの世を去ることに。直後に山崎の合戦で織田信長に仕えていた豊臣秀吉が明智光秀を撃破します。

1584年:小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と織田信長の息子織田信雄(のぶかつ)と徳川家康のタッグが対峙します。長い戦いを豊臣秀吉が制しました。織田信長没後の権力争いを豊臣秀吉が制します。

1586年:徳川家康が豊臣秀吉に仕えることに。

1590年:豊臣秀吉が天下を統一します。

1598年:朝鮮出兵の最中に豊臣秀吉が死去。

1600年:関ヶ原の戦いで石田三成と対峙し、徳川家康が勝利。事実上の天下統一を達成します。

1603年:徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開きます。

激動の20年を、一度は権力争いに破れつつも、長期的視点をもった、したたかな戦力で巧みに生き抜いた徳川家康がついに天下を握ったのです。室町時代には存在した統一国家が長年の戦いによって解体されてしまった後に、国家を新たに創造する旅に家康は出ます。

 

天下統一後、安定化に向けた心配性な家康の旅

この1603年から13年後の1616年に徳川家康は75歳でこの世を去ります。この13年の間には豊臣家の処遇を巡る戦いである大阪夏の陣・冬の陣、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度などのベーシックとなる法令の制定、ヨーロッパの国との通商交渉など、新しい安定した徳川家の時代を築くために家康は奔走します。

大阪夏の陣・冬の陣では仕えていた豊臣秀吉の一族を滅ぼします。昨年2016年にテレビで放映された大河ドラマでも有名になった真田幸村が大活躍した戦いです。実はこの時豊臣側が出陣した大阪城はその後、大阪城下の復興と豊臣家色の払拭を意図した、徳川家によって解体・埋め立てが行われ、新たな大阪城として再建されています。

一国一城令とは、文字通り「1つの国には1つの城しか存在してはいけない」という法律を定めたものです。安土桃山時代には3,000以上の城が存在していたと言われていて、この法律の制定によって300以下まで激減しました。これも新たな勢力が力を付けるのを恐れた徳川家が統治の強化を目的としています。全国の大名を統制して、江戸幕府としての軍事力を高める為にも効率的なコントロール方法を確立する必要があったのです。

武家諸法度も同様に家康の家来となった戦国大名達と彼らに仕える武士達を統制する為の行動規範とも呼べる法律です。その内容を見ると、謀反の禁止、新たな築城の禁止、有名な参勤交代を定めた文言や、幕府の許可無く結婚することの禁止など、相当に反逆や謀反による革命を恐れ、神経質になっている家康と徳川家の様子が伺い知れます。激動の時代を勝ち抜いた家康の命で起草された、この法律は260年続いた江戸時代の基礎を作りました。

禁中並公家諸法度も同様に朝廷の力にも監視と干渉を行いコントロールを求めた家康が起草を支持した天皇や朝廷の役割や権限を定めたものです。武家諸法度が将軍や時代の移り変わりによって変化していったのと対象的に、禁中並公家諸法度は幕末まで内容が変化していません。

家康はやっと統一した徳川家の天下を脅かしそうな勢力は徹底的に弾圧し、数々の法律を制定して神経質とも言えるほどにコントロールを求めました。こうした家康の努力によって、安定した時代が訪れようとしていた時、家康は応仁の乱で荒廃した京都に支援を行います。

 

家康と京都の関係とその後の徳川家

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1467年に勃発し11年ほどの長期間に渡って続いた応仁の乱によって、京都の街は完全に荒廃してしまいました。文化的な資料や寺院仏閣は焼けてしまいました。現在、京都で見ることができる寺院仏閣のほとんどは江戸時代以降に再建されたものだと言われています。

徳川家は実は浄土宗の帰依者です。平安時代から鎌倉時代にかけて、浄土宗を立ち上げた開祖である親鸞聖人はこの京都の地を拠点としていました。1602年に京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進された教如上人はここに新たな本願寺を創立しました。

これによって本願寺は東西にと存在することになり、この新たな本願寺は東本願寺となりました。家康はこの他にも円光寺に朝鮮から伝来した文章や木製活字を寄贈したりするなど、京都の新たな創造に積極的に支援をしています。

また、三代目将軍の徳川家光はあの有名な清水寺の清水の舞台の再建を援助したり、五重塔の再建にも協力しています。

家康の時代に安定を築けたからこそ、文化的な活動に支援をする余力が生まれ、260年にも及ぶ安定政権の中で争いが少なかったからこそ、今の時代まで残る多くの歴史的建造物が存在し続ける事ができたのです。

家康が終わらせた激動の時代、そして築き上げた安定の時代は、新たな創造を行うのに最適な環境を作り上げたのです。