戦い続ける人類の自主的解体行為と創造から戦乱の功罪を知る


戦い続ける人類と歴史的文化財の被害

img_palmyra01出典:https://www.rt.com/

人類の歴史は戦争の歴史です。誕生から現在に至るまで「歴史上、人間が戦争をしていなかった時期はない」と言えるほど、人間は戦いを繰り返してきました。

火力を中心に破壊を目的とした兵器を用いる戦争は、人々の生活はもちろん、長い歴史を経て人々が受け継いで来た文化的な遺産や建造物に大きな破壊をもたらす事があります。第二次世界大戦ではヨーロッパでは完全に破壊されたイタリアのモンテ・カッシーノ修道院や甚大な被害を受けたケルン大聖堂などがあります。

日本でも、東京は焼け野原になり歴史的な資料が消失したり、他の都市では岡山城、松山城、広島城などが被害を受け、首里城では保存されていた文化財の略奪等が起こったそうです。

現在も混乱が続くシリアを中心とした中東で世界的な文化遺産が次々と破壊されている事はニュースなどでもよく知られています。世界遺産に認定されたシリアのパルミラ遺跡のバールシャミン神殿やライオン像が破壊されてしまいました。

これらはどれも、人間が自ら行う破壊行為です。戦いに参加しこれらの破壊行為を行う者達はどれも大義名分が存在しています。その時々では「破壊」ではなく「解体」なのです。これらの破壊行為も彼ら自身の大義名分は「イスラム世界」を再構築するために現存する自らの主義に反するものをスクラップしているに過ぎないのです。

貴重な文化遺産を直接的に破壊したり、被害が出るような攻撃は、往々にして否定されるべき行為です。一方で、人間は自らの愚かさによって自分たちの住む場所を「解体」し、復興への強い意志をバネに幾度も「創造」を行ってきました。

壊れた文化財を民衆の力で修復したり、更地の中から全く新しいカルチャーが生まれたりするのは、失った豊かさを取り戻す意志を持った時、人間がとてつもないパワーを発揮できることを象徴しています。

 

戦乱による解体と再興と新たな創造を繰り返してきた古都・京都

img_oninwar01出典:http://epicworldhistory.blogspot.jp/

日本の古都である京都はまさしくこの戦乱・戦争による解体と創造を幾度も経験している例です。修学旅行や個人的な旅行で京都の寺院を中心とした文化遺産巡りをされた方も多いですが、よく知られているように現存している京都の文化遺産は我々が日本史で習った平安京や平城京の時代から残存しているものはありません。

京都で文化財が消失した事件といえば応仁の乱が有名です。政治に飽きてさっさと隠居したかった8代将軍足利義政とその妻富子の利己的な思惑や幕府内外の権力争いを発端に始まった内戦は10年以上に渡って続き、解決する意志も能力もない将軍足利義政によるリーダーシップ不在の中、混乱を極めたこの内線は京都の街を破壊し尽くしました。

戦力拡大を急いだ各軍は足軽と呼ばれるいわゆる民兵を雇い入れましたが、粗暴な彼らの統制を効かせる事ができず、彼ら足軽は私利私欲の為に略奪・破壊を行ったとされています。この結果として、ほとんどの寺社仏閣が被害を受け、現在京都の街にある文化財の殆どは江戸時代を中心に再興・建設されたものです。

応仁の乱で戦火を免れたのは数える程しかないそうです。京都の文化財を尋ねると「応仁の乱で消失し〜」という文言を目にした事がある方も多いのではないでしょうか。

 

応仁の乱以降の京都の厳しい状況と後に続く破壊的な戦乱

応仁の乱による解体があまりに有名過ぎる京都ですが、実は他にも多くの破壊を伴う戦乱を経験しています。

鳥羽伏見の戦いの4年前に起こった蛤御門の変では長州軍と幕府軍が京都を舞台に戦いました。御所の蛤御門付近で激しい戦いが繰り広げられた事からこの名前がついています。この時の戦いで市街地の大半が被害を受けたと言われています。本能寺、東本願寺などが焼失し、京都御所、二条城、西本願寺等も火災の危機にあったそうです。

後の鳥羽伏見の戦いと併せて、京都で「先の戦争」というと、第二次世界大戦ではなくこの2つの戦いを指す人もいるようです。

応仁の乱の後、戦国時代には天文法華の乱と呼ばれる宗派間の争いを端に発した宗教戦争も起こりました。武装集団でも合った延暦寺の勢力が放った炎は京都を包み、応仁の乱以上とも言える程の被害をもたらしたそうです。応仁の乱からわずか60年余りしか経っていない時の出来事です。

戦国時代後期から本格的な再興が始まり、江戸時代にようやく安定したと思った束の間、前述した蛤御門の変・鳥羽伏見の戦いが起こったのです。それでも、現在の京都を訪れた人は残された文化財や町並みに感嘆します。何度、破壊によって自らの街が解体されても、再興・創造を続けて来たパワーを相まって魅力的な街で有り続けているのです。

足利義政が応仁の乱以降に作った慈照寺銀閣などの東山文化を除いて、戦乱によって被害を受けた京都の文化財の再興に尽力したのは民家人や文化人で権力者ではなかったと言われています。禅の修行の場所としても有名な大徳寺は応仁の乱で戦火に合いましたが、その後一休和尚などの茶人と関西の商人の協力によって再興されたそうです。

冒頭で紹介したシリアを中心とした中東世界でも一刻も早く平和が訪れ、再興を信じる人々の手によって文化財の修復や解体後の新たな創造によって平和で豊かな時代が再び訪れる事を強く期待します。