啓蒙専制君主フリードリヒ2世が行った君主像の解体と国家の創造


18世紀において、ドイツは小国に分かれて争っている状態でした。

その中から頭角を現し、後にドイツ民族の諸国家を統一したのがプロイセンです。

プロイセンが他の国々を圧倒し、ヨーロッパでも有数の強国となったきっかけは、ある名君が生まれたからでした。

それがフリードリヒ2世。その偉大な功績から「哲人王」または「フリードリヒ大王」と呼ばれた人物です。

「君主は国家第一の僕(しもべ)」という言葉が残されているように、フリードリヒ2世は、今までの絶対君主像を解体し、上からの改革を行った啓蒙専制君主でした。

民主主義の創造につながっていく思想を体現した先見的な君主だったのです。

 

父王との確執と啓蒙専制君主としての目覚め

フリードリヒ2世は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の子として1712年に生まれました。

父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、プロイセンの財政改革と軍備増強に功績を残した王で、優れた内政手腕を持っていました。特に軍隊の育成に力を入れたため「軍人王」と呼ばれたといいます。

しかし、同時に粗野で極端に実務志向な人物でもあったようで、文化人でもあったフリードリヒ2世とは馬があわず、ときには虐待といってもいい仕打ちをしたと伝わっています。

特に有名な事件はフリードリヒ2世が逃亡したときのことで、捕らえられて幽閉されただけでなく、手を貸した友人が目の前で処刑されたそうです。

この後かろうじて許されたフリードリヒ2世は、抑圧された環境でひたすら忍びます。

そんななか、父王の下から離れて過ごしたラインスベルグ城での4年間は、フリードリヒ2世にとってようやく訪れた開放的な生活でした。

その間に国内外の文化人や思想家、政治家と書簡を交わし、先進的な政治理念を育んでいきます。

この時期に啓蒙専制君主としての土台ができあがったのでしょう。

 

即位とともに行われた改革

1740年に即位したフリードリヒ2世は、さっそく改革に乗り出します。

それは父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が行った政策をさらに押し進めた富国強兵策でした。

官僚制の整備や商業・貿易の奨励、国土開発、河川の整備、じゃがいもの普及による農業生産性の向上など、その内政手腕は父王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世を上回ります。

また、軍備の増強にも力を注ぎ、国力・戦力ともに他国を圧倒するほど充実させていきました。

特にユンカーを保護しつつ義務を背負わせた政策は、ドイツ民族国家に長く受け継がれることになりました。

ユンカーとは地主貴族のことで、領地を持ち農場経営を行う特権階級です。

フリードリヒ2世はユンカーを優遇すると同時に「高貴なる義務」として、特権を持つ者はその権利に見合った義務を背負わねばならないと教化していきました。

たとえば軍隊内で高い地位につける代わりに率先して前線に出るといったように、権利と義務を結びつけたのです。

この政策はドイツ貴族の精神となり、後のナチス将校にまで受け継がれていきます。

このようにユンカーを取り込んで、国力と軍事力を高めたフリードリヒ2世は、オーストリアとの抗争に勝利し、シュレジェンという土地の権利を獲得します。

さらに七年戦争と呼ばれるオーストリア、フランス、ロシアの連合軍との戦いをほぼ孤立無援の状態にありながら切り抜け、有利な条件を引き出して終戦させました。

この結果、プロイセンはドイツ民族諸国内どころか、当時のヨーロッパ内でも有数の強国にのし上がったのです。

 

啓蒙専制君主としてのフリードリヒ2世


このようにプロイセンを強国に育て上げたフリードリヒ2世は、典型的な啓蒙専制君主とされています。

啓蒙専制君主とは18世紀に生まれた自由や平等といった人権思想を、統治に取り入れた絶対王政の君主のことです。

啓蒙専制君主は、王の権力は神から授かった絶対の権利であるとした「王権神授説」とは違い、王もまた国民に奉仕する国家の一機関であり、その義務を果たすために必要な権威・権力を持つのだ、と考えました。

もともとプロイセンは当時のヨーロッパでも珍しい司法と政治が切り離されていた国家でしたが、フリードリヒ2世は特に法を遵守した君主でした。

ときには法を守るために庶民の訴えを聞き入れて政策を改めてさえいます。これは従来の君主としては考えられない対応です。

同時に言論の自由や信教の自由、拷問の廃止、法律の整備など、先進的な法改革をおこなっています。

これは現在の法治主義・人権主義に通じる、いわば「上からの革命」でした。

もちろんそれは君主の下での権利に過ぎず、現在の法治主義や人権思想とは違います。

しかし、このような国民重視の改革はプロイセンの国力を高めただけでなく、多くの人々に好意を持って受け入れられたのです。

このフリードリヒ2世の治めたプロイセンの首都ベルリンは、その自由闊達な様子から「北のアテネ」と称されたといいます。

アテネとは古代ギリシアの共和政都市を表す言葉でした。つまり、プロイセンには現在の自由民主主義につながる共和政の空気がただよっていたのです。

 
このようにフリードリヒ2世は、ドイツ民族国家の統一につながるプロイセンの強国化を行っただけでなく、それまでの絶対的な支配者である君主像を解体し、新しい開明的な王のあり方を創造した1つの例となりました。

その統治にはどことなく共和政の息吹がまぎれています。

啓蒙専制君主と呼ばれる通り、フリードリヒ2世はひそかに国民の眼をひらく役割を天から与えられていたのかもしれません。

 
 
【参考文献/サイト】
・井沢元彦(2004)『井沢元彦の英雄の世界史』廣済堂出版.
・世界史の窓「フリードリヒ2世」http://www.y-history.net/