美王と呼ばれた辣腕フランス王フィリップ4世が行った解体と創造



1285年、フランスではフィリップ4世が王位につきました。

非常に美しい顔立ちをしていたため「美王」と呼ばれた人物ですが、その政治は時代の変えるほどのもので、テンプル騎士団を解体したことで知られています。

フィリップ4世がおこなった「解体」はテンプル騎士団だけではなく封建社会そのものにおよび、絶対王政の基盤を「創造」したといわれています。

そんな美しくも辣腕を振るったフランス王、フィリップ4世をご紹介します。

 

フィリップ4世が即位した時代背景

フィリップ4世が王位についた13世紀は、封建制の時代でした。

王を中心に、公・候・伯・子・男の爵位によって階層的な身分に任命された貴族が、それぞれ領主として私的な領土を治める統治制度です。

封建制における王の役割は、臣下である貴族たちに爵位と領土の支配権を認め、その代わりに貢物を納めさせ、戦に従軍するなど義務を課すことでした。それぞれの領土では貴族が独自に定めた私的権力や私法が優先されます。

王といえども貴族たちの統治については容易に口出しできません。それは、教皇を中心とした教会勢力に対しても同じです。

つまりこの当時のヨーロッパは、国内に王と貴族(封建領主)、そして教会がそれぞれ権力をもっていた分権社会といえます。

この分権制度を解体し、王に権力を集中させようとしたのがフィリップ4世だったのです。

 

フランス国内の統一を目指す

即位したフィリップ4世は、婚姻や相続など政治的手腕でシャンパーニュなどを支配下に収めて勢力を増強し、さらにフランス北東地方のフランドルを支配するべく戦争を行いました。

フランドルは毛織物が盛んで豊かな地でしたが、羊毛を輸入する関係でイングランドとの繋がりが深い土地柄です。そのためフィリップ4世としては、経済的にも国内の統一のためにも手に入れたい場所でした。

しかし、治めるフランドル伯爵はイングランドと手を組んで長きに渡る抵抗を続けることになります。

その戦争に必要な費用を捻出するために、フィリップ4世はフランス全土に渡って課税を行いました。

この課税には貴族だけでなく教会も含まれていたのです。当然教会側は反発し、当時の教皇ボニファティウス8世とぶつかることになりました。

 

三部会を招集し、教会勢力に対抗

ボニファティウス8世は、フィリップ4世に対してローマ教皇庁への服従を求めます。フィリップ4世は対抗するために、パリでフランス初の「三部会」を招集しました。

「三部会」とは聖職者、貴族、市民の3階級からそれぞれ代表が参加した身分制議会です。フィリップ4世は教会という宗教的勢力に対して、フランス国民全体の支持を集めることで対抗しようとしました。

このはっきりした反抗によってボニファティウス8世との確執はさらに深まり、フィリップ4世はローマから破門されてしまいます。

当時、ローマ教皇から破門されるということは、宗教的な後ろ盾を失い王の権威を貶める非常に重い罰でした。

しかし、フィリップ4世はそれでも抵抗を止めませんでした。謀略によってボニファティウス8世は捕縛されかけ、その屈辱が原因となり憤死していまいます。

その後、教皇を継いだのはフィリップ4世の影響下にあったクレメンス5世でした。

クレメンス5世は1309年に教皇庁をフランスのアヴィニョンに移します。実質的にフィリップ4世の監視下に置かれたのです。

このことによって、フィリップ4世は教会に対しても絶大な影響力を持つに至りました。

 

テンプル騎士団の解体


フィリップ4世は教皇クレメンス5世の権威を利用して、当時ヨーロッパ各地に領地と権力を持っていたテンプル騎士団の解体にのり出します。

ヨーロッパ全体に影響力があったテンプル騎士団は、フランス統一にとって目の上のたんこぶでした。また、騎士団が所有する資産を奪い国費と戦費に充てる思惑もあったといいます。

テンプル騎士団の解体は異端審問と処刑という凄惨なものでしたが、フランス統一は一気に進むことになりました。教会とテンプル騎士団の影響を取り除かれ、相対的に国王の権力を高める結果となったのです。

このフィリップ4世の果断な政策によって、フランスは封建制度から中央集権化に突き進みました。それは、その後の絶対王政への礎になっていきます。

 

封建制度と教会勢力を解体し、中央集権を創造したフィリップ4世

このようにフィリップ4世は、国内の封建領主と教会の影響力を「解体」し、封建制度から中央集権化への道筋を「創造」した王として歴史に名を残しました。

また教皇との対決のときに初めて招集した三部会は、王の課税権を左右する制度として根付き、同時に議会制の種をフランスに埋めこむことになります。後年フランス革命が起こるときに、三部会も大きな要因となるのです。

フィリップ4世が為した解体と創造は、中世から近世にかけてのフランス政治史において、非常に重要な意味を持っていたといえるでしょう。

 
【参考文献/サイト】
・島崎晋(1999)『目からウロコの世界史』PHP研究所.
・世界史の窓「フィリップ4世」http://www.y-history.net/