王政を解体しイギリス議会政治の礎を創造した英雄モンフォール



イギリス議会政治の起源は13世紀だといわれています。民主主義に繋がったピューリタン革命や名誉革命が起こったのが17世紀ですから、その数百年前に議会制の種が植えられていたのです。

しかしその議会政治は民衆が勝ち取ったものではなく、ある貴族が反乱を起こして、王に認めさせたことから始まりました。

貴族の名はシモン・ド・モンフォール。一時的ではありましたが王権を解体し、議会政治を創造した、今も讃えられている中世イングランドの英雄です。

 

中世イングランドの政治事情とマグナ・カルタ

13世紀のイングランドでは身分制ではありましたがすでに議会政治が機能していました。

1215年に封建諸侯と各都市の代表が国王に進言した「マグナ・カルタ(大憲章)」がその始まりです。

当時の国王ジョンは対外的に多くの失政を犯していました。

フランス内に所有していた領地の失陥、ローマ教皇からの破門と上納金の増加、フランスとの戦争と敗退、と外交的には負け続けです。さらにその失政を補うために、国内では増税を強行し続けました。

そのため、イングランドの貴族が反乱を起こし、国王が持つ権利の制限と貴族の権利の保証、教会・市民の自由、法による支配などを決めたマグナ・カルタを認めさせたのです。

このマグナ・カルタによって、国王が国民に税を課すときには、貴族と僧による身分制議会の承認を得なくてはならなくなりました。

しかし、ジョンおよび息子であるヘンリ3世は、このマグナ・カルタの取り決めを破り、何度も課税を強行します。

 

ヘンリ3世の横暴に反旗を翻す

ヘンリ3世は、マグナ・カルタが成立した翌年1216年に、わずか9歳で即位しました。貴族や僧は議会を開催し、まだ幼かったヘンリ3世を支えてイングランドの政治を行います。

ところが25歳になり国王として正式に統治し始めたヘンリ3世は、父であるジョンの名誉回復のためにフランス国内で失ったイングランド領を取り返そうとし始めます。

それだけを見るなら親孝行な王でしたが、実際には戦争の財源を得るためにマグナ・カルタの取り決めを無視して重税をかけようとするのです。

その横暴さに立ち上がった貴族が、シモン・ド・モンフォールでした。

1258年に、モンフォールは反国王派の中心となって「オックスフォード条項」をヘンリ3世に認めさせます。

これは主に国王の監視と定期的な議会の招集を決めたものでした。しかし、ヘンリ3世は一度承認したはずのオックスフォード条項を破ったばかりか、ローマ教皇とフランスの力を借り、反国王派を始末しようと目論みます。

ここに至りついに決心したモンフォールと反国王派は、1264年に反乱を起こして国王軍を打ち負かし、ヘンリ3世を捕らえます。そして議会政治を認めさせるのです。

後世「モンフォール議会」と呼ばれた、議会制の誕生でした。

 

一瞬で終わってしまったモンフォール議会の顛末

翌年開催された議会は、貴族と僧、騎士、さらに都市の代表によって構成されていました。従来の議会のように貴族と聖職者だけではなく、中小地主である騎士や各都市からも代表が選出されたのです。

選挙によって選ばれたわけではありませんが、平民階級の参加が許されたという意味では、議会制民主主義の先駆けでした。

しかし、時代的にはまだ早過ぎたのでしょう。貴族階級と市民階級との認識の違いもあり、議会は烏合の衆だったのです。

結果として貴族階級はヘンリ3世の子であるエドワード1世と手を結びます。

モンフォールはエドワード1世との戦いで命を落とし、モンフォール議会はあっという間に消えていきました。

 

モンフォール議会が残した議会制民主主義の種


ですが、エドワード1世は祖父と父の治世への反省から貴族たちを優遇し、1295年には「模範議会」を招集します。

役割としては国王の諮問機関でしたが、議員には騎士や平民の代表も含まれていました。モンフォール議会の構成が活かされていたのです。

このモンフォール議会の議員構成は模範会議を通じて定着し、14世紀のエドワード3世のころには貴族と聖職者の「上院」と騎士・市民からなる「下院」に分かれます。

この頃には課税関係の諮問機関としてだけではなく、立法においても下院、上院、国王という流れが生まれていました。

さらに17世紀のピューリタン革命や名誉革命においても、モンフォール議会は参考にされたといいます。

このようにモンフォール議会自体は一瞬に過ぎませんでしたが、従来の王と貴族階級だけだった政治体制に、平民階級の参加を取り入れました画期的な議会でした。

今までの王政を解体し、後の議会政治を創造するきっかけになったといえるでしょう。

シモン・ド・モンフォールは13世紀という古い時代に、未来の議会制民主主義につながる種を植えていたのです。

 
【参考文献/サイト】
・島崎晋(1999)『目からウロコの世界史』PHP研究所.
・世界史の窓「シモン=ド=モンフォール」http://www.y-history.net/