唐から宋へ。中国の武断政治の解体と文治主義の創造


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出典 http://www.shinings.net/itani/hikaku11.htm

遣唐使など日本史とも関わりが深い古代王朝、唐が滅亡した後、中国は五代十国時代という戦乱の世になります。この動乱を収め、中国を統一した新しい王朝が宋です。

唐の滅亡と五代十国の時代から学んだ宋は、従来の武断政治を「解体」し、あらたに文治主義を採用して豊かな国を「創造」しました。その統治制度は後の明や清に継承されることになります。

唐から宋への移行は、中華帝国の統治制度がはっきり変わった、大きな歴史的転換だったのです

 

戦乱の世の原因となった武断主義

唐の滅亡後、五代十国という戦乱の世が訪れました。五代とは中国北部で約10数年ごとに入れ替わった5つの王朝、後梁・後唐・後晋・後漢・後周のこと。十国はその他の地域で建国した呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩・荊南・楚・南漢・北漢を意味します。

つまり西暦907年の唐の滅亡から979年の宋の中国統一まで、およそ70年の間に15もの国が争っていたのです。

このように国が乱立した大きな要因は唐の制度であった節度使でした。節度使はもともと国境付近で防衛と行政を担う役職でした。しかし、唐の弱体化にともなって徐々に国内に乱立するようになり、同時にその武力と行政権によって独自の勢力を作るに至ります

唐の末期においては地方政権にまで成長していました。この節度使が唐の滅亡後に各地で建国したのが五代十国の始まりです。唐の後を継いだ形で建国した後梁の皇帝も、節度使だった朱全忠でした。

唐の全土に制度として広がっていた節度使という、軍事力を持った行政組織が、戦国の世の生み出す土壌となったのです。

 

英雄の登場と宋の文治主義

この戦乱の世に1人の英雄が現れます。それが宋の太祖皇帝、趙匡胤です。趙匡胤は五代最後の王朝である後周の近衛隊に所属している武将でしたが、7歳の幼帝から禅譲(皇位を譲り渡す)形で国を受け継ぎ、宋を建国しました。

趙匡胤は優れた戦績を残している武将だったにもかかわらず、その統治は武力に頼らないものでした。五代十国の騒乱の原因となった節度使の権力を弱める政策を行うときも、基本的に話し合いを粘り強く行い、徐々に力を削いでいき名誉職へと変貌させていきます。

また隋の時代に始まった官吏登用試験である科挙を洗練させ、本当の意味で開かれた制度に完成させたのは宋の時代でした。科挙に合格した官僚に代表される文官が軍人の上に立ち、権限は皇帝に集中させ、官僚はそのサポートをして国を治める「文治主義」に変換していったのです。

このように趙匡胤は、唐から五代十国時代にいたる軍事力を基盤とした武断主義をできる限り平和的に「解体」し、皇帝と官僚が統治を行う文治主義による国を「創造」しました

趙匡胤は中国統一を間近に亡くなりますが、宋は趙匡胤の弟である趙匡義が2代皇帝となり、引き続き節度使勢力の弱体化と官僚政治の制度化を推し進め、979年に中国統一を達成します。

 

後の王朝に受け継がれた文治主義

宋の時代は文治主義によって多くの文化人が生まれ、また庶民層でも独自の文化を創造するようになり、芸術、工芸、学問、技術が大いに発達しました。同時に産業も発展し、交易も盛んに行われるようになります。

内政的にみると非常に豊かな国となったのです。反面、軍事力は弱まり、後年北方騎馬民族である女真族が興した金によって首都を落とされ、南方で再建する(南宋)など、対外的な危険にさらされました。

しかし、それでも文治主義による経済と文化の発展は止まらず、南宋は経済力においては金を圧倒していました。この文治主義はその内政的な成果によって評価され、後の王朝である明や清にも大きな影響を与えていくのです

 

このように趙匡胤は、軍事力に偏りすぎた五代十国の武断主義を「解体」し、あらたな文治主義を「創造」することで、戦乱を収め、宋という豊かな国を作りました
それは後の中華帝国をも左右する、偉大な統治制度の転換だったのです。

【参考文献/サイト】

・島崎晋(1999)『目からウロコの世界史』PHP研究所.
・鶴岡聡(2004)『いっきに読める世界の歴史』中経出版.
・布目潮ふう、山田信夫編(1995)『新訂 東アジア史入門』法律文化社.
・世界史の窓「宋/北宋」http://www.y-history.net