政府を解体に導いたアパルトヘイトが創造した世界的な人権意識


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1948年、南アフリカ共和国において、おそらくこれからもずっと非難の対象となるだろうある政策が実施されました。

それがアパルトヘイトです。白人とそれ以外の人種を分け、選挙権から就職、生活圏、教育とあらゆる社会的な面で人種差別を容認した、近現代で稀にみる悪法でした。

しかしこの政策を批判し、反対する人々の動きは世界的に広がり、経済制裁や不買運動がまき起こります。

アパルトヘイトは、最終的に当時の共和国政府を「解体」する原因となりましたが、同時に世界中の人々に問題提起し、人権運動を活発化させたのです。

 

アパルトヘイトの問題はなんだったのか。「分離」と「差別」の違い

アパルトヘイトは、単語としては「分離」や「隔離」を意味します。人種によって生活圏や利用できる施設などを分ける、人種隔離政策のことです。

世界史上、悪政として名を残したアパルトヘイトですが、言葉の意味通りの政策であれば、少なくともこれほどまでに非難される法制とは言えませんでした。

生活様式や文化が極端に異なる民族同士が1つの国に混在するときは、自然と生活圏が分かれます。また余計な争いや不平等を緩和するために、国策としてそれぞれの民族を「分離」し共生するという方法は、完璧な答えではありませんが間違いでもないでしょう。

ただし、それは民族それぞれを平等に扱った場合にのみ有効な手段です。

アパルトヘイトの問題は「分離」ではなく、完全な「差別」だったことでした。

 

始めから存在した差別思想の影響

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アパルトヘイトのもともとの目的は、南アフリカ共和国内に住んでいた2つの白人の対立を少しでも解消することでした。

共和国を統治していたイギリス人と、オランダ系の移民であるアフリカーナーの間に、経済的な格差が生まれていたのです。アフリカーナーはプア・ホワイトとさえ呼ばれるほど貧しく、当然不満が高まっていました。

1911年の「鉱山労働法」や、1926年の「産業調整法」など、アパルトヘイト以前に実施された数々の法令は、アフリカーナーの権利を高め、イギリス人との格差を縮めるためのものです。

しかし、すでにこの時点で重大な差別が内在していました。これら方策はすべて白人種だけを基準に考えられており、その他の人種の権利はないがしろどころか、明らかに白人の下に置かれています。

結局、始めから国の指導者たちには差別思想があったのです。それは国民党が政権をとったことにより、さらに徹底されることになりました。それこそがアパルトヘイトです。

有色人種は選挙権も被選挙権も奪われ、白人に比べて驚くほど安い賃金で働かされました。住む場所も公共施設も学校も完全に区分けされて、無断に入れば罰せられます。

1971年にはホームランドと呼ばれる地区を10区創設し、そこに民族ごとに移住させ、自治権を与えています。こう書くと権利を保証しているように思えますが、実際は不毛の地に有色人種を追放して国民としての権利を奪い、安価な労働者としてだけ扱おうとする目論見でした。

このように、アパルトヘイトは白人至上主義の差別政策だったのです。

当然、国内では有色人種を中心に反対運動が行われました。後の大統領であるネルソン・マンデラもまた、そうした反対運動の中心人物の1人です。

 

アパルトヘイトは全世界的な人権運動を「創造」し、政府は「解体」された

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20世紀も後半に入り、人権に対する意識が高まっていた世界で、アパルトヘイトのような露骨すぎる差別政策が受け入れられる訳はありませんでした。

国際連合では1952年以降、再三に渡って南アフリカ共和国に対して非難決議を表明しています。国際オリンピック委員会は彼の国を除名し、オリンピックに参加させませんでした。さらに多くの国から経済制裁が行われています。

また、世界中で南アフリカ共和国製品の不買運動を始めとする、民間レベルの反アパルトヘイト運動(AMM)が巻き起こりました。この運動には身分や立場の違いにかかわらず多くの人々が共感し、一体となってボイコット運動を行っています。

特に南アフリカに深く関わっていたイギリスでのAMMは激しく、イギリス連邦から南アフリカ共和国を離脱させ孤立への道を作り上げる重要な役割を担いました。

1980年以降、ますます激しくなる国際的非難を無視できず、共和国政府はアパルトヘイトに属する法律を段階的に廃止していきます。そして、1994年に全国民による総選挙が行われ、ネルソン・マンデラが大統領に就任することで、完全撤廃が実現しました。

 

このようにみていくと、アパルトヘイトは確かに悪政で、考えられないほど多くの人々を長い間苦しめ続けました。しかも白人統治を安定させるどころか国内外の反対運動を加熱させ、結果として政府は「解体」されています。

しかし、同時にこれほどまでに明確に「人種差別」を意識させ、全世界的な反対運動の対象となった一国の政策もありません。世界中の名もなき人々が、身分や立場に関係なく義憤にかられて一体となり、反アパルトヘイト運動(AMM)をおこなったのです。

それは全世界的な人権運動の「創造」でした

世界史上の出来事としてみたとき、このAMMの残した成果は、人権運動に大きな勇気と希望をもたらしたという一面があったといえるでしょう。

 

【参考文献/サイト】
・ロバート・ロス 著 石鎚優 訳(2009)『ケンブリッジ版世界各国史 南アフリカの歴史』創土社
・Google Art & Culture「アパルトヘイトをボイコットしよう」https://www.google.com/
・世界史の窓「アパルトヘイト」http://www.y-history.net/