解体新書~人体の「解体」により「創造」された現代医学の歴史


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出典 http://www.tenri-u.ac.jp/calendar/q3tncs00000si66a.html

 

現代における日本の平均寿命は世界でもずば抜けて高く、近年では過去最高の更新を続けています。この背景には日本の医療レベルの高さがうかがえますが、決して昔から医療レベルが高く長寿だったわけではありません。

実は江戸時代における平均死亡年齢は20代だったという説もあるのです。しかし、18世紀に西洋医学の知識がもたらされたことにより日本の医療レベルが飛躍的に高まることとなりました。

そこで今回は、西洋医学の核となる人体の「解体」の歴史が、現代医学の「創造」にどのようにつながったのかをみていきましょう。

 

古代における人体解剖

実は人体解剖の歴史は古代エジプトの時代にまでさかのぼります。紀元前3500年頃にはすでに頭蓋縫合や脳表面の状態の記録が残されています。

その後も古代ギリシャの医学者ヘロフィロスが人体解剖により脳が神経系の中枢であることを発見したり、「十二指腸」「前立腺」といった医療用語を創造したりと現代の医学の基礎となる理論を組み立てました。

しかし、その後死者崇拝や、来世のための遺体保存といった考え方が一般的となり、人体解剖は長らく禁止されました。生涯に600体もの解剖をおこなったとされるヘロフィロスはローマ時代には「屠殺者」とまで呼ばれてしまったのです。

 

中世における人体解剖の再興

その後、人体解剖が再び脚光を浴びるのはルネサンス期に入ってからのことです。

16世紀にはボローニャ大学で体系化された解剖学の研究が始まりました。この時代の芸術家レオナルド・ダヴィンチが人体解剖学の知識に基づく精巧な絵画技法を用いたことは広く知られています。筋肉や腱、骨格から内臓、胎児に至るまで解剖に基づくあらゆるドローイングを残したのです。

しかし、ダヴィンチはこれらの発見を生前に公表せず、死後2世紀にわたり埋もれてしまったため、残念ながら医学の進歩に貢献することはありませんでした。

ダヴィンチの死後、近代における人体解剖学の基礎を築いたのがベルギー出身の解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスです。

ヴェサリウスは積極的に人体解剖をおこない、その成果として1543年に「人体構造論」を出版します。これは非常に画期的な内容でした。なぜならば、古代に人体解剖が禁止されて以来、中世に入ってもなお古代に得られた知識や理論をもとに人体に関する研究が行われていました。そこに登場した「人体構造論」は古代の理論の誤りを指摘し、詳しい解剖結果に基づく人体の仕組みを明らかにしたのです。

 

近代の「解体新書」により新たなる医学の創造へ

ルネサンスが衰退したあとも人体解剖による医学の発展は続きました。そして、18世紀に入り、ドイツの医学者ヨハン・アダム・クルムスが出版した解剖学書に結実します。それが「ターヘル・アナトミア」、つまり「解体新書」です。

1722年にドイツで出版された「ターヘル・アナトミア」は版を重ね、1734年にオランダ語版がオランダ人医師ヘラルト・ディクテンにより日本にもたらされます。これが蘭学医・杉田玄白や前野良沢らにより日本語訳されて1774年に出版されたのが「解体新書」です。

「解体新書」が日本の医学界に与えた影響ははかりしれません。「ターヘル・アナトミア」を初めて手にした杉田らはその正確な内容に驚くことになります。

この当時の医者は患者の様子を外から見て病気を判断しており、体の中や仕組みがどのようになっているかという知識はなかったのです。このときオランダ語から多くの医学用語が翻訳され、「神経」「軟骨」「動脈」など現在でもそのまま使われているものも多くあります。

こうして、日本における西洋医学は発展して、それまで日本で一般的だった東洋医学との融合がはかられた結果、1804年には華岡青洲が世界初となる全身麻酔による乳がん摘出手術に成功しています。

 

時代によりタブーともされた人体の「解体」ですが、確実に現代医学の「創造」につながる成果を上げていることがわかりました。特に、江戸時代の日本では西洋から得た新たな知識と、東洋における既存の知識との融合をはかり、独自の知識を作り上げていったのです。

このように何かを「解体」することは必ずしも破壊ではなく、新たな価値の「創造」に結びつくこともあるのです。